あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

社会不適合者というのは・・・

こんばんは。

今日は3月20日、日中の気温はだいぶ暖かくなり、日によっては仕事をしていると暑いなと感じるようになってきました。

ですが、朝晩はまだ冷え込むことが多く、また花粉の飛散もあり何だか体調が変だな感じますね。

新型コロナウィルスによる影響は、自分の身にもかなり迫ってきていると感じます。

職場では濃厚接触者が出始め、自分もどうなるか分からない状況です。

コロナに関する日本政府の取り組みについては、批判されるところが大きいなと思っています。

そんな中でも、僕は僕の人生を生きていく。

コロナにかかったら、その間の補償はどうなるのか?自宅待機でいいのか?

色々と不安なことだらけですよね。

 

さて、今日はまた久しぶりの更新ですが、やはり常々思っていることを書こうと思います。

ツイッターでツイートしたことなので、ツイッター経由でいらっしゃっている方にとっては「またその話かよ笑」ってなるかと思います。

僕は精神疾患にかかる前から、「生きづらい」と感じていました。

先天的なものなのかどうかは分かりません。記憶にあるのは、幼稚園の頃ですね。

当時は「生きづらい」という感覚ではなく、「なんで僕はうまくできないんだろう・・・」と思っていました。

主に人間関係ですね。友達との関係について、「どうして僕は他の子のようにできないんだろう」と思うことがありました。

それが嫉妬や羨望になっていきます。

「アイツは良いな」といった思考です。

これが顕著に表れ始めたのは小学校高学年になった頃でした。

低学年から中盤まではあまり意識してこなかった、「スクールカースト」みたいなものが存在していることに気づきました。

それ以前にも存在したのかもしれません。ですが、小学4年生の頃と5年生の頃とで、学校生活の楽しさが大きく変わりました。

大きく変わったと感じたのは「男女間の仲の良さ」でした。

4年生までは男女分け隔てなく、どちらかというと仲の良い関係でした(だと思っていただけなのかもしれません)。

お互いに下の名前やニックネームで呼び合ったりしていた時期でした。

5年生になり、何が変わったのかというと、分け隔てないはずであったクラスがはっきりとグループに分かれていたのです。

そして、いわゆる「陽キャ」の男の子たちだけが、「陽キャ」の女子と話ができる。

みたいな感じでした。

陽キャという言葉を使うのはとても嫌です。ですが、分かりやすくするために敢えて使います。

僕は自分から打ち解けていく人間ではなかったため、どちらかというと「目立たない」グループでした。

陽キャの男子から話しかけられることもなければ、女子なんてとんでもない。

 

これまで隔たりなんて感じなかった僕は、その現実にとてもショックを受けました。

そこからどんどん強くなりました。

「アイツはいいな」という考え方が。どんどん強く。苦しくなってきました。

好きになった子が陽キャの子だったら、もうクラス中に笑われる。

友達に話したことが全てクラス中に伝わる。笑われる。

「面白いやつだな!」の笑いではありません。

嘲笑われる、の方です。

 

息苦しい、、、そして僕から笑顔が消えていきました。

まぁ、僕の過去の話なんて過去のブログで散々話をしているので、改めて詳しくする必要はないかと思います。

気になる方だけ、遡ってみてみてください。

 

「生きづらい」という気持ちが生活に影響を及ぼし始めたのは、社会人になってからです。

それまでは、まだ「部活」や「バイト」という「自分を表現できる場所」がありました。

それこそ、部活の時とクラスにいる時、バイトの時と大学内、では人が変わったように明らかに変化がありました。

 

以来、生きづらいと感じながら生きてきて、もうだいぶ年もとってしまいました。

得られたもの、失ったもの、多くあります。

特に経済的な面では、損失は大きかった。そして、今も不安定な環境がある。

社会的なステージで人を判断することを、僕はすんごい否定しています。

社会的なステージというのは、つまり

出生→幼少期→青年期→社会人→結婚、自立→家を建てる(買う) などなど

のような感じで、「いわゆる一般的な人生の歩み方」みたいなもので人を判断することです。

 

・「あなたには子供がいないから、私の気持ちなんて分からない!」とか

・「経験していないから分からないんだ!」といったことです。

このような考え方を強く否定しています。

じゃあどんな考え方をしているかというと、「人には人の」「自分には自分の」生き方があるし、人との接し方がある。考え方も人それぞれ。

子供がいないからと言って、子育てしている人に寄り添うことができないか、と言えば「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

うつ病を経験していないからと言って、うつ病患者の気持ちを理解することができないか、と言えば「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

 

結局、僕も適応障害から、うつ病双極性障害といった診断がついてきましたが、経験したのは「自分の」病気だけです。

他の人のうつ病を経験したことなんてありません。

もちろん、その「自分の病気の経験」が役に立つこともあるでしょう。

ですが、決して全ての人に共感を得られるものではありません。

「お前それは違うだろ!」と言われることも多々あるでしょう。

 

経験をしたからといって、似たような境遇の方に寄り添えるか。

それは分からない。

寄り添えるかもしれないし、完全に拒絶されるかもしれない。

もう死にたいくらいにズタボロの心を、理解して癒すことができるのは、もしかしたら「死にたい」なんて思ったことのない人なのかもしれない。

 

僕が「生きづらさ」についてブログやツイートをしていたとしても、「うんうん、そうだね!」と共感してくれる人もいれば、「腹立つなこいつ!」と感じる人もいる。

僕も一人の患者として思うんだ。

「あなたは経験していないから分からないでしょ?」

という言葉は、なるべく言いたくない。

そして、お互いに分かり合えるために必要なものが「その経験」とは限らないと思うんだ。

だって、人の人生なんて、どう頑張っても経験できない。

生まれ育った環境も違えば、見ている世界も違う。

例えば同じ「うつ病」を経験しても、病気に対する気持ちや周囲の理解などなど、あらゆるものが「僕」と「あなた」とでは違う。

確かに共通することも多くあると思う。でも、確実ではない。

それから、「経験していないから、といって理解できないと決めつけるのは良くない」

 

「社会不適合者」という言葉をいつ頃からか、ネットでも結構目にするようになった。

目にした当初は「あぁ、僕のことか」と思っていた。

精神疾患を患い、2度も離婚をし、何度も転職をした。

「社会での居場所を見つけられない」まま、生きてきたのは間違いない。

「社会不適合者とは?」ということで調べてみると、色々と記事が出てきます。

詳しい説明はしません。

こういう言葉が出てくる時に僕が一番最初に考えるのは、「社会ってなんだ?」ってことです。

社会って、いったい何でしょうか?

まぁ、これも「社会とは?」で検索すれば言葉の意味なんかは出てきます。

その社会に「不適合」っていうことは、つまり「仲間外れ」みたいなものですよね。

あるいは「不良品」といった感じでしょうか。

すごくイメージ悪いですよね。

何らかの理由で社会に馴染むことができない状態。

という感じですが、

それって「その人が悪いの?」「その人に何かが足りないの?」って思うんです。

時間にルーズということも、「社会不適合」につながるということです。

「そりゃあ、時間にルーズなのは許せんよ」と考える人もいるでしょうし、

「いやいや、時間なんてある程度で充分だよ」と考える人もいるでしょう。

そういう色々な考えの人が集まって形成されているものが「社会」ですよね。

どうして時間にルーズが許せない、というのが「社会の常識」みたいになってるんでしょうね。

MajorityとMinorityという単語があります。

多数派と少数派、という意味です。

そして、社会はだいたい常に「多数派の意見が常識」という空気が流れています。

「社会不適合」というのは、つまりその「多数派の常識」に馴染めない人のことになります。

でも、「多数派の意見」って、必ずしも正しいのでしょうか?

そして、それで良いんですか?

 

そもそも、社会ってのは様々な人が集まって形成されるもののことを指しますよね?

そこには当然色々な考え方を持った人がいるのです。

「不適合」だとか「適合」だとか、そんな区別あってはいけないよな、って強く思うのです。

 

内容的にもっと濃くすると「マナー」といった話にも繋がってくるので、僕はそこまでの話をしようとは思いません。

ですから、「時間に間に合うようになんてのはマナーだろ!」といった考えは、先ほどで言う「多数派の常識」であり、それが「正しいのかどうか」はまた別の話だと思っています。

そこまで踏み込んだら、えらいことになります。

今ですら、既に過去一番で長い記事になってしまっています(申し訳ありません)。

 

「生きづらい」と感じることと「社会不適合」とは、繋がらない方もいれば、繋がる方もいるでしょう。

人の輪に「疲れることなく」入っていける人もいれば、「疲れるけど」入っていける人もいる、「死にそうになるけど」入っていける人もいる、「死ぬから」入っていけない人もいる、「むかつくから」入らない人もいる。

どれが正しいわけでもなく、どれが間違っているわけでもないと思う。

いや、どれも正しいのだと思う。

だからこそ、そういった様々な考え方を持つ人が存在しているからこそ、「社会」なのだと思う。

そこに「不適合」となる人が存在してしまうのは、その人が問題なのか?

僕は、「社会に寛容さが足りないから」だと思う。

「社会不適合者」なんていう単語が作られることがおかしいし、そんな社会に生きているなんて、ものすごく恥ずかしいことだと思う。

だって、「寛容さがない社会」ってことですよ?

 

「いやいや、そうは言っても最低限のマナーとか最低限の教養はあるでしょ!」という方、

それももちろん1つの考え方でしょう。

でもね、あなたの常識は他の人の常識とは違うんです。

それぞれの常識を持った様々な人が生きている。それが「社会」なんです。

 

でも、分かるんです。「そうは言っても、人が怖い、社会が怖い事実は変わらない」

そうなんです。

結局、生きづらさの原因は「社会のせいだ」と言ったところで、今、「生きづらい」と感じているものがなくなるわけでも、軽くなるわけでもありません。

 

「社会に寛容さがないから」さっき僕はそう言いました。

それなら、「寛容な場所に移動すればいい」と思うのです。

何度も繰り返している言葉ですが、社会は本当に様々な考え方の人がいます。

ですから、

今、とにかくしんどくて仕方ない人

今にも死んでしまいたい人

明日、仕事や学校に行くことが悲惨な人

親、家族から逃げたい人

 

どうか、全力で逃げてほしい。

そして思い切り探してほしい。

「自分でも居心地が良いと思える場所」を。

例えば仕事で考えれば、会社が変わればそこにいる人間も(当たり前ですが)変わります。

業界的に似たような性質の人が多いという場合は、業界や職種を変えればそれだけで大きく変わります。

学校に居場所がない方。

苦しいですよね。

親が理解してくれればいいですが、そうでないことが多いです。

 

どうか、「今いる環境」が全てではないってことを思ってほしい。

僕も、散々逃げ回ってきました。

職場から逃げ、妻から逃げ、業界から逃げ、職種から逃げ、また妻から逃げ、

 

そしてようやく笑顔で仕事ができる場所が見つかりました。

逃げ続けた10年ほどの期間、僕は笑顔を忘れていました。

そして酒に乱れ、様々なトラブルにも遭いました。2回目の離婚では弁護士さんを頼ることにもなりました。

今、確かに収入はまだ安定していません。

でも、自然な笑顔と、ありのままの自分の姿で働くことができています。

僕もあなたに、笑顔になってほしい。

 

社会不適合者、なんておかしな言葉に左右されず、自分の考えを信じ、生きていてほしいんだ。

だって、みんなが笑顔で輝くことができる社会なんて、素敵じゃない。

様々な疾患があっても、病気を持っていても、障害があっても、希望を失うことなく安心して笑い、安心して活躍できる社会。

そんな社会が実現できても、良いんじゃない?

それで損する人。いますか?

 

長々とありがとうございました。

みんな笑顔に。ゆっくりでも、繋がって、生きていこうよ。