なぜ生きる?
こんにちは。
またまた少し期間が空いてしまいました。
毎日、何かしら更新ができれば良いのですが、なかなかそうもいかないわけです。
その原因としては、僕が患っている「双極性障害」にあると思います。
僕の場合、特に目立った「躁」というものはありません。
ですから、いきなり大金を使ってしまうとか、派手に遊びまくる、旅行に行きまくる。
ということはなく、また「鬱」に関しても、そこまで深い「鬱」はありません。
ただ、無気力になってしまうことはよくあり、そのサイクルも不定期なものです。
僕がブログを書いておこうと思った時というのは、何かしら発信しておきたいな、と思った時です。
そんな今日は、仏教に関しての話になります。
とはいえ僕の家系は特に決まった宗派があるわけではありません。
決まりもなければ、毎日のお祈りなんかもありません。
親族が集まって、「お祈りをするならどんな言葉を言いますか?」
と聞いたとすると、おそらく色々と個々に違ったものが出てくると思います。
そして僕自身も、仏教、浄土真宗ですね、について触れたのはごく最近です。
ですから、本当に触りの部分しか分かりませんが、そこが本質のような気がしてなりません。
ここ最近考えていることとして、「なぜ生きる?」という疑問があります。
僕は20代の後半という早い時期に「双極性障害」にかかりました。
もちろん、学生の頃から、幼少期からなど、もっと早くから悩まれている方がたくさんいらっしゃることは知っています。
でも、社会人として大学を卒業し入社した会社での様々なトラブルによって、またプライベートな人間関係のトラブルによって、20代後半から服薬治療をしております。
発症当初から、薬の効果はほとんどなく、「治療難民」みたいな感じになって、いよいよ40代に入ってしまいました。
それと仏教とどんな関係があるのか、ということですが。
「なぜ僕らは生きているのか?」
ということを考える機会が増えたからです。
「僕ら」というか、「僕は」というほうが正しいですね。
他人には他人の人生がありますので、それについてとやかく言うつもりはありません。
ただ、自分の人生については、やっぱり「自分」が主体にならないといけないなと思うことが増えてきました。
20代という比較的早い時期に、いや、遡ればもっと前から生きづらかった。
幼少期から、友人と比較して「アイツはいいな」と思って過ごしていたことを覚えています。
その「アイツ」というのは特定の人ではなく、様々な場面で変わっていました。
しかし、いつの時も、「アイツより劣っている自分」を思い知らされていた。
なぜアイツのようにモテないのだろうか。
なぜアイツのように成績が良くならないのだろうか。
なぜアイツのお母さんのように、優しい母親ではないのだろうか。
そんなことが蓄積されて、更に新卒で入社した会社で様々な年代の人と関わる機会が増え、そこでイジメを受け、大勢の前で恥をかかされたりした結果、精神疾患を持ってしまうことになりました。
プライベートでも問題を抱えておりました。
そんな人生を歩んできましたが、ここ最近、人生の虚しさ、はかなさや切なさを感じることが増えてきました。
お金があっても、イケメンでも、美人な嫁さんがいても、死んでいく時は一緒に持っていくことはできません。
どれだけ会社での地位が上がっても、有名になっても、知人が増えたとしても、自分の人生は自分一人で生きていかなければなりません。
100%必ず死ぬ運命なんです。
人間とはそういうものなんです。
一方通行の人生しかないんです。
あの頃に戻ることはできません。自分も、他人も。
死は必ずやってくるのです。そして、その際に、どれだけ家族や知人が励ましてくれたとしても、行くときは一人で行かなければなりません。
生きていくためには、当然、お金も必要ですし、お金を稼ぐためには働かないといけませんし、働くためには健康が必要になってきます(今の僕はここの部分が犠牲になってしまっていますが・・・)
また、健康で働いていくためにも、更には「できる限りいい条件で」働くためにも、資格だったり、経験が必要となってきます。
人間関係もとても大切になってきます。
でも、それらはあくまでも「どうやって生きていくか」という「生きている状態」での話に過ぎません。
「なぜ生きているのか?」の答えにはならないんです。
前述した通り、お金も健康も家族も車も家も、何一つとして、死後の世界に持っていくことはできません。
であれば、生きている内に「なんのために生きているか?」を考えることって、とても大切なのかなと思うのです。
そこと、浄土真宗の教えがリンクしたんです。
浄土真宗では、まさにその「なんのために生き、そして死後はどうなるのか?」を説いているのです。
まぁ、そこがリンクしたところで、出家をするか、という話にはなりません。
僕はとりあえずの生きながらえをしながら生きていく他ありません。
僕の考えていることが「大ヒット」とかなれば、話は別かもしれませんが、
僕には僕の目の前の仕事をしていくことが大切だと思います。
そして、いくら「大ヒット」したとしても、人生の目的は変わることはありません。
全て死ぬときには何も持っていくことはできないのです。
だからといって、死後はどうなるの?自分一人で死んでいくって悲しすぎるじゃん。
そもそも、「今生きている」という「心」はどこへ行くの?
ということについても、浄土真宗では説かれています。
当然、僕は「にわか仏教徒」に過ぎないので、スキだらけの考えだと思います。
しかし、「なぜ生きるのか?」を考えずに死ぬか、考えながら死ぬか。
その差は大きいと思っています。
自分だけでなく、家族などの近い人が「病」となり、年齢的にも「もしかしたら」という状況になった今だから、そこまで考えたのかなと思います。
ですが、「生まれたら死ぬ」なんて、当たり前のことですよね。
1年1年
1日1日、「老い」に向かうしかない。
そんなことは「生まれた瞬間から決まっている」ことなのです。
ですが、「どうやったらうまく、楽に、穏やかに生きていくか」ということばかりに気を取られ、「死んだあと」を考えないのは、何だかなぁって思ったのです。
死んだらあとは何もなくなる。
死後のことなんて考えても仕方ない。
生きている今を楽しもう。
色々な考えはあるかと思います。
でも、1秒1秒、近づいているんです。
「だからなんだ?」と思われる方も多いと思います。
「なぜ生きる?」をそもそも疑問に思わない人もいるでしょう。
それはそれで、仕方のないことです。
でも僕は考えてしまいました。
なので、「考えない状態」に戻ることはできません。
「なぜ生きているか?」
しばらくの課題となりそうです。
長々とありがとうございました。