あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

他人と比較をするということ

こんばんは

お盆休みシーズンに入り、夏の暑さが感じられる毎日ですね。

今日は久しぶりに思いついたことを書こうと思います。

知的障害を抱えている方の生活支援の仕事において、散歩とか散策といったものがあります。

基本的には1人の利用者さんに1人のスタッフが付いて、一緒に散歩をするということです。

施設の利用(朝の散歩、昼食準備、午後の作業)が終わったあと、夕方に約1時間ほど施設の外に出て、運動をします。

まぁ、運動というよりかは、余暇支援という名前で、利用者さんの好きなように過ごす、というものです。

 

今は暑いので、近場の広めの場所(イトーヨーカドー)に行き、店内を歩いて体を動かす、という流れです。

今日はその夕方の支援だけの勤務でした。

仕事内容は前述した通り、店内を利用者さんとマンツーで歩く。のですが、お盆休みも入っていることから、家族連れが多かったです。

 

社会と言うか人生というものは、とてつもなく不平等で不公平だなと思っています。

いわゆる「ないものねだり」に繰り返し苦しんでいるのが人間です。

人間は産まれた瞬間からもう不平等です。

容姿や才能、あるいは親の環境や産まれた国、街。

スタートラインから大きく違うものです。

「日本に生れて良かったな」と言えたのも、「昔は」なのかもしれません。

現在の社会を見ると、ワーキングプアーといった方々が増え(僕も含めて)、一部の大企業の人やある種特定の人が儲かっているという状態です。

また、それに拍車をかけるような経済政策ばかり行ってきた。

そのため、需要は伸びず、賃金は上がらず、非正規雇用がどんどん増え、格差が広がるばかり。

これは主に「お金」の面での、不平等です。

ですが、どんな家庭環境で育ったのか、どこの学校を出たのか、どんな友人がいたのか、どんな友人がいなかったのか、パートナーはいたのか、そのパートナーは素晴らしかったのかどうか。

などなどなどなど。

 

僕も過去の自分を振り返るという作業を行っているのですが、いつの時も「あいつは良いよな」という気持ちがあった。

その「あいつ」というのは、様々な状況によって変わっていったのですが、やはり人と比較していた。

そして、「自分にはないもの」を思い、苦しんでいた。

 

よくこの手の話をすると、「人と比較するのをやめよう」という考え方が提案されることがあります。

その言葉はすごくシンプルです。

ですが、それって可能でしょうか?

 

僕も過去にはそれが可能だと信じていた。そして、そういう生き方を目標にしていた。

でもね。

「ないものねだり」って、人間には無くてはならないものなのです。

そう明確に伝えられているのが、「浄土真宗」です。

浄土真宗に関する本や動画は、数か月前から興味を持ち始めたものですが、

一度は聞いたことがあると思いますが「煩悩(ぼんのう)」が、人間にはあります。

そして、その煩悩の中に、「ないものねだり」も含まれているのです。

人間から煩悩を無くしたら、何も残らなくなる。と言われているものです。

そこまで強力な、そして人間を人間たらしめるものが、「人と比較をし、その差に苦しみ、憤りを感じること」なのです。

という内容のことを動画で拝見し、「なるほどな」と感じました。

「人と比較するのをやめよう」は、人間である以上、無理なんです。

 

イトーヨーカドーですれ違う家族たち、僕も離婚していなければ、妻と子供と、色々な場所に出かけていただろう。

でも、今はその妻も子供もいない。

「じゃあどうして離婚をしたんだ?」という問いには、過去のブログでしつこいくらいに書いているので、ここでは話しません。

また、結婚できたという過去があるだけでも、それは別の人からすると、「あいつ良いな」になるのだと思う。

みんながみんな、「あいつ良いな」と思って、毎日生きて、苦しんで、時には「死んでしまいたい」とさえ思う。

そうは言っても、僕が目にする家族たちは、みな「幸せで笑顔にあふれている」ようにしか見えない。

その方々も、それぞれ夫婦や親子で葛藤がある。(間違いなくそうなんです)

ですが、はたから見る僕には、「幸せそうな家族」にしか見えず、そしてそれは僕が手に入れることができなかったもの。

だから、そこに「不公平、不平等」を感じてしまう。

 

また、付き合ってきた女性の人数についても同じです。僕は結婚した2人の元妻しかいない。

それだけを見れば、僕が付き合った女性の中で結婚に至る可能性は100%です。

ですが、人数だけを見れば2人だけ。

そして、体の関係を持ったのも2人だけ。

学生時代から、友人と呼べるような友人がいなかった僕ですが、早い時期から(小学生とか?)彼女がいたという友人に対し、「あいつは良いな」と思っていたし、全然モテない自分が苦しかった。

それでも、まだ恋愛関係の話ができる環境だったことは、別の方から見れば「羨ましいな」ということだったのです。

 

どこまで考えても、どんな方向に考えても、「あいつは良いな」は無くなりません。

でも、そんな妬みや嫉み、怒り、憤りをもった自分でも、それは「人間らしい」ということであり、劣っているとか、性格が悪いとか、悪人とか、そういうものではないのだと思う。