居心地の良さを求める
こんばんは。
居心地の良さというものも、精神的な負担を軽くする上で大切になってくると思っています。
精神的、肉体的、どちらにも影響を与える「居心地」。
昨日、安心感と言う人の土台となる部分についての話をしました。
居心地の良さに関しても、似たような位置にあるのかなと思っています。
とはいえ、居心地が良いと感じるかどうかは人それぞれに違うわけです。
ある人にとっては、叱咤激励し合い、競争し合う人がたくさんいる方がやりがいを感じることができたり、自分らしく過ごすことができる。それが居心地の良さかもしれない。
でも、間違いなく僕はそんな環境は息苦しくて死んでしまいます。
僕には僕の居心地の良さがあるのです。
その居心地を追求していくことって、大切なんじゃないかと思うのです。
自分が自分らしくいられる環境。
決して無理をして笑顔になったり、無理をして我慢したり、ということをせずとも活き活きと過ごすことができる環境。
そんなものは理想に過ぎない!
もしくは、多くの人が集まっているものが社会なんだから、一人一人の我がままを実現させる場所ではない。
と考える人もいることでしょう。
それならば、人は社会に出て生活を送るということについて、多かれ少なかれ何かしら無理や我慢や制限を強いられなければならないのでしょうか?
↑ この文章は僕にとってはどうしても不自然な気がしてなりません。
なぜなら、無理や我慢を頑張ってすること=自分らしく活き活き過ごすこと、に繋がっている人が存在するからです。
先ほども話しましたが、僕にとっては無理や我慢を強いられる環境は「苦行」でしかありません。
それを「心地いい」とは到底思えません。
無理や我慢をすることが居心地の良さに繋がる 人がいるということは、
無理や我慢をしないことが居心地の良さに繋がる という人もたくさんいるということ。
どちらかしかない。という話ではないのです。
また、どちらの生き方が優れているか、価値があるか、勝ちなのか負けなのか、という比較なんてできるはずがありません。
でも、無意識の内に幼少期より刷り込まれているものがあると思っています。
「頑張ることは、素敵なこと、喜ばしいもの、キラキラしているもの」というようなニュアンスのことって、日本人の根底にはうっすらとでもあるんじゃないかって思うのです。
だから、頑張ることを「やめる」ために勇気が必要だったり、頑張らないようにするために、周囲の人々との溝が出来てしまうのです。
僕も頑張るから、あなたも頑張る。
ではないんです。
(さしあたって)僕は頑張ってみる、あなたは自由。
なんです。
そして、僕が頑張り続ける必要もありません。しんどければ休んでも良い、頑張らなくても良いんです。
そんな感じで自分にとって居心地の良いと感じる人たちが周りにいる。
という環境を求めて生きていくことは、とても大切だと感じるのです。
自分で環境を作り上げることができれば良いのですが、ゼロから作っていくことはとても大変です。
僕の場合はそんな環境を追い求め、転職をどんどんしていった。
自分がありのままの姿でいられる環境があるかないか、それがとても重要だと思うのです。
人と比べるのではなく、自分が安心できればそれで充分です。
もちろんそれは数字で表現されにくいものです。
同じ「頑張る」にしても、
安心して過ごしていられる環境で頑張る のと
周囲と比較され、ビクビクしながら、無理をして頑張る のとでは、心身への影響は全然違ってきます。
自分の居心地を最優先に考えることは、自己中や我がままではなく、もっと尊重されるべきことだと思うのです。