言葉の責任について
こんばんは。
今日の名古屋は午後、夕方くらいからかな、雨が降りました。
それまでは少し青空も見えたので、散歩に行けばよかったなと思いました。
あれ?青空、少しだけど見えたよな、気がしただけかもしれません。
優しいという言葉は人によって捉え方が違います。
単に「優しい人」と言っても、その解釈は人それぞれ。
ある人には優しいと思える人も、別の人が見たらそこまで優しくないってことだってよくあります。
僕は全ての言葉が人それぞれ、なものだと思っています。
成人男性、という言葉の定義としては満20歳以上の男性、という意味ではありますが
全ての人が定義に沿って使っているかというと、そんなことない場面もあるかと思います。
ある程度、辞書などに載っていそうな単語であれば、そこまで違わないのかもしれませんが、同じ成人男性と似たような意味を持っている(と思われる)単語に「大の大人」という言葉があります。
これって、どういう人を指すのでしょうね。
意味を調べてみると、「りっぱな大人、一人前の大人」ということのようです。
もう言葉の定義があやふやになっています。
「立派な」「一人前の」という言葉の捉え方は、人によって大きく違います。
どんな状態が「一人前なのか?」は、その人が育ってきた環境や、今置かれている状況に大きく左右されてくると思うのです。
そんな感じで冒頭に述べた「優しい」も同じです。
定義と言う捉え方も様々ですが、「優しい」というものには「感情」が含まれてきます。
その人が「優しさ」に対してどんな感情を持っているか、どんなことを考えてきたか、という部分に委ねられることが大きいのです。
色々な人から「君は優しい」と言われてきた、からといって目の前にいるその人にも、「優しい」と思われるかどうかなんて分からないのです。
受け取る側がどう捉えるかによって、全く違った方向に進んでしまうこともあると思う。
ハラスメントという言葉が、今は色々な物事にくっついてきます。
セクハラやらパワハラから始まったものは、今はスメハラ、アルハラ、モラハラとにかくあらゆるものがハラスメントに繋がっていく。
僕が怖いな、と感じていることがあります。
「優しさ」ハラスメントが出てくるんじゃないかって思うのです。
つまりは「優しくしてもらった」ことに対して嫌悪感を覚えることです。
現実にはもう既に、そのような感覚をお持ちの方はたくさんいらっしゃると思います。
皮肉なことに、「優しい人が嫌い」という人もいそうです。
精神的に苦痛を抱え、毎日死にたい、消えたいって思っている方を見かける。
それは主にネット上でのつぶやきでしか把握はできないのですが、
その方々に声をかけるにしても、戸惑いを感じてしまうのです。
「優しさが逆に傷つけてしまうことになるんじゃないか」とか、「優しいことでマウントを取ろうと思っている、と思われるんじゃないか」とか。
それこそ考え過ぎって言われそうですが、よくよく考えてみると、何気ない「優しさを込めたつもりの言葉」も「充分、鋭利な刃物」に代わってしまうのかなって思っています。
それらはもう、受け取る側にすべて委ねられてしまいます。
もちろん、その受け取る側とのしっかりした意図の伝達ができれば問題はないのでしょう。
しかし、優しさが刃物に代わるような状況は、きっと一言目で既に嫌悪されていることでしょう。
それくらセンシティブな問題でもあり、奥が深いものだと思っている。
また、それくらいに言葉の責任というものは重大であり、大切にしていきたいと思う。
このようなことを常に考えて言葉を発していくことは、非常に苦しいこともあります。
そして何度も何度も失敗をしてしまいます。
それでも優しい言葉、声掛けを大切にしていきたい。
そこまで奥深く考えたからこそ、言葉に責任を持っていきたいと思っています。