書こうとすれば書けてしまう?
こんばんは。
昨日から、気になっていたことを書きたいと思います。
ツイッターなり、このブログでもそうですが、匿名での発言が可能です。
ツイッターに関しては、質問箱なり、ほめて箱などのように、「匿名」でメッセージを募集することができるわけです。
その両方において、少し僕に対して批判的なご意見があったため、今回の記事を書きたいと思います。
その方あてに、個別に反応をするということは、あまり意味がないと思います。
なぜって、
批判的なご意見・・・
言った側からすれば、「批判するつもりはない」「それくらいで批判なんて!!」
そういった形で、視点を変えれば色々な立場に立つことができます。
例えばパワハラ、セクハラ、いじめ、あらゆるハラスメントにおいて、やはり受けた側がどう感じたか、が大切だと思うのです。
というより、僕がここで詳しく話さなくても、お分かりですよね。
ツイッターにある「ほめて箱」、これは、フォロワーさんなり、誰でもいいので褒めてください!っていうメッセージを受け取ることができます。
ここに、褒めるどころか、僕に対して批判的なコメントが多数書き込まれました。
匿名での批判。
誰なのかは、分かりませんし、知りたくありません。
ただ、僕はどれだけ批判をされても良いから言いますが、
「そういうことは止めておけ」
ほんとに、そう思う。
誰のためでもないよ。
また、僕がそういったコメントに対し、「批判的なことを言って楽しいですか?」という問いかけに対し、「楽しいですよー」
と返してきた。
楽しいのは、あなただけだ。あなたが楽しければ、人を陥れてもいいのか?
また、こうした発言に対し、「批判された」「否定された」「拒絶された」
と感じてしまう。
これについても、いろいろなご意見があります。
そもそも、言った側は、「批判しようとして」いるわけではないのかもしれない。
それに、「たったそれだけの言葉で傷つくなんて、”何て弱い男なんだ”」
という妄想を抱く。
傷つくかどうか、批判されていると感じるかどうか、否定されていると思うかどうか、それは、言葉を放った時点で「言った側には主体性はありません」
受けた側に、すべてがかかっているのです。
僕は、とても傷つきました。本当かどうか分かりませんが、その方の言うことには、普段ツイートにイイねや、リプを送っているとか。
そうなったら、誰なのか!?
そんな疑心に駆られてしまいます。
そういった疑心を挑発しているのかもしれませんが、僕は変わりません。
色々と感じた中で思ったことがあります。
うわべでは、リプでそれなりに対応しつつ、裏ではあーだこーだ思う、って、
めんどくさくないか?
はっきり言いたい
めんどくさい
だから、僕はフォロワーさんのリプやイイね、を疑うことはしませんし、僕もそういうスタンスで臨みたいと思っております。
僕は、いろいろな面を同じ場(ツイッター内ならツイッターにて)にて、使い分けることなどできません。
また、思うことがあります。
コメント欄、ツイートってさ、
自由に好きなことを書いていい場ではあるけれど、
「誰かを批判したり、否定したり、罵倒したり、罵ったり、」
していい場所なのか?っていうと、僕は「そうではない」と思う。
それは、相手に対する呼び方もそうだ。
「お前、貴様、てめえ」そんな言葉は、使う・・・、使っていいわけないじゃん
いつどんな時でも、向こう側には人がいる。
その文章(コメント)に対してのみ答えるならば、「お前、貴様」でも良いのかもしれない。
でも、それって、小さいことじゃん。
どのツイートにも、その先に人がいる。
どうしてそういったツイートをしたのか、それは本人しか分からない。
けれど、だからこそ、向こう側の人の温度を感じる、感じようとすることって、とてつもない大きな特技になるのかもしれない。
ビクビクするわけでもなければ、ワクワクでもない、ジーンと浮き出てくる感情。
僕はそういった感情に目を向けていきたい。
もう一度言います
「書けてしまう場所」は、「書いていい場所」ではありません
それが、自分を含め、あなたの手元にもあるんだということを、伝えたい。