運の話
こんばんは。
今日はちょっと遅めの更新ですね。
朝は寒い気がしましたが、昼間は昨日に引き続き暖かい1日でした。
寒さも嫌いなのですが、外は寒くて室内は暖かい、という寒暖差も嫌いです。
自律神経の乱れが原因なのか、汗をよくかくのです。
冬でも汗拭きシートは欠かせません。
さて、ふと思いついたことなのですが、少し重たく、様々な解釈が出てくることなので、書こうかどうかを迷いました。
しかし、おそらく、今後、いずれは書くだろうなと思うので、そのまま書きます。
僕は大卒以降の会社に関して、長く続けることができておりません。
その原因は何かな?と考えてきたのですが、「うつ」が原因だったり、人間関係だったりと、様々な原因がありますが、
今、簡単に表すと「運が悪かったから」と答えます。
「運」という表現も、人それぞれに解釈が違います。それに、周りのせいにしている、とか、環境のせいにしている、という見方も出てくると思います。
僕が思う「運が悪かった」のは、こんな感じです。
・たまたま、職場にお局さんがいて、いじめられた。
・たまたま、同じ職場の人が庇ってくれなかった。
・たまたま、そのような悩みを最初の妻(結婚する前も後も)に相談できなかった。
・たまたま、結婚と人事異動などのイベントが重なって、それに体がついていかなくなった。
こんな感じです。
それぞれ一つずつを振り返れば、もちろん、更に細分化できますし、それぞれにもそれぞれの原因があります。
ですが、今、HSPという概念を知って、振り返って、僕は生きづらかったなって思った時
「色々な場面で、運が悪かったな」って思ったのです。
そんな感じで考えると、僕の父親は、1つの会社を定年まで勤めておりましたが、
「色々な場面で、運が良かった」のかなって思うのです。
それこそ、HSPではない、ということも「運が良かった」と言えますし、
・たまたま、職場にいじめてくる人がいなかった。
・たまたま、嫌な人がいても、相談できる人がいた。
・たまたま、体調が悪くなっても、退職せざるを得ない状況とまではならなかった。
というように
こんな言い方をしてしまうと、父親は努力をしてこなかったのか?と捉えられるかもしれませんが、そうは思っていません。
一つの会社で定年まで、勤め上げることは、ものすごい素晴らしいことだと思います。
僕では、もうできないことですから、その大変さを経験することができません。
ただ、総括して、「運が良かった」から、という見方ができると思うのです。
当然、父親にとっても「運が悪かった出来事」はたくさんあったと思います。
しかし、そういった事態に対して、「運良く」対処できてきた。
一言で「運」と言っても、色々な運の良さ、運良く避けることができた、ということの積み重ねという意味で使っています。
そして、その中でも、父親自身にも試行錯誤、苦難、苦悩があってのことだと理解しています。
でも、それを考えていくと、それなら、一つの仕事を続けることができなかったり、離婚を何度もしてしまった僕は、どうなのか?
何の努力もせずにいたから、こうなったのか。
そんなことはないはずです。
僕は僕で、それなりの苦難があり、苦悩があり、努力があった。
そこで、父親と僕と、どちらの方が苦労したのか、という比較をしようとするから話がややこしくなってしまう。
先に述べましたが、生まれた時点でHSPかそうではないか、という違いがあるわけなので、どちらが上、下、という視点で考える必要はないのです。
父親世代の人は、とかく「必死に働いた」ことを主張するわけですが、それと僕の世代の視点と比べても仕方がないのです。
あくまでも僕の父親に関して、という話ですが、定年まで勤め上げ、子供2人を大学まで出して、そして何を得られたか、という問いには「目に見えるもの」しか話が出てきません。
心の動き、というものにあまり着目をしていなかったのかな、と思います。
また、そこまで着目する必要がなかったのだろうなと思うのです。
生きづらいとか、居心地が悪いとか、そんなことに意識を向ける必要がなかった。
意識を向けなくても生きてこれたんだな。
もちろん、そういった世代の方々にも様々な気持ちをお持ちの方がいらっしゃいます。
生きづらい、息苦しい、と感じていらっしゃる方も多いでしょう。
ですが、僕の両親に関しては、「運良く」そんなことを考える場面はなかった。
僕は仕事が長続きしなかったことを、ずっと後ろめたく感じておりました。
働いていないことへの罪悪感、無責任さを指摘される立場
でも、ようやく、今更ながら、比較ができるものではないんだなって思ったのです。
それに、そんなに僕はダメダメだったのか?
僕は失敗ばかり、逃げてばかり、無責任ばかりだったのか?
冷静に振り返ってみると、僕には僕なりの、苦しさを感じながら、それなりに頑張っていたことが出てきます。
例えば、HSPの気質を持っていらっしゃる方でも、「生きづらい」と感じている方もいれば、HSPという名前すら知ることのないままに過ごしている方もいる。
僕にとっては、生きづらさが比較的、顕著に表れる環境だった。
そんな環境も「運が悪かった」からなのだろうなと思うのです。
ただ、先程から、運が「悪い」「良い」という表現をしていますが、おそらく、それもどちらが上、下、優、劣、と比較をする必要はないのだろうと思う。
父親は、途中で退職することがなかったために、一つの会社の良し悪しを十分に把握し、多くの知識と経験を得たと思う。
僕は、一つの会社に居続けることができなかったがために、色々な会社を見ることができ、様々な立場(療養、離婚など)を経験することで、広い視野が手に入った。
こんな感じで、冷静な視点で見つめ直せば、決して劣っていると思い込む必要はないのです。
何だか生きづらいなぁ・・・、仕事は続かないし、離婚はするし、実家も居心地悪いし・・・、
なんでだろうなぁ。
色々な場面で、運が悪かったんだろうな
っていう流れで、今回の記事のような考え方になりました。
「運」という言葉を使うことで、誤解を招くことにもなるかもしれません。
ですが、考えてみれば、あらゆることが「運」なのかなって思います。
入社した会社でいじめられ、精神的に弱ってしまった場合、それはその人が悪いのか?
そうではないですよね。どんな人がいるのか、どんな立ち位置になるのか、なんて分かるはずありません。
それに、精神的に参ることになる、ということだって、入社前から分かるようなものではありません。
僕はどちらかと言うと、すぐに自分が劣っている、自分が悪い、と考えてしまうので、良い意味で「自分をすごい」と思えるプロセスを考えたらどうかなって思ったのです。
ダラダラ長い記事ですみません
そして、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
運が悪いって嘆かなくても大丈夫。悪いことには必ず良いことがついている。
もっと癒しが実生活に近づいていかないものか・・・