僕は誰も癒せない
こんばんは。
明日が休みということもあり、少し夜更かしをしております。
休みと言っても、予定はあります。
明日は午前中に精神科にて診察があり、午後は障害年金の相談のために出かけます。
コロナの影響で、なかなか相談の予約が取れず、障害年金についても時間がかかりそうです。
それでも、ゆっくりでもしっかりとやっていこうと思います。
さて、今日はツイッターを通して思っていることでもありますが、一人の人間として思っていることを書きたいと思います。
「メサイア・コンプレックス」という言葉をどこかで聴いたことはありますか?
心理学を少し勉強された方ならお分かりだと思います。
自分が非常に劣っている人間だと思いながらも、人の役に立ちたい、人を癒したい。
という気持ちが強くでている状態のことを指すようです。
または、自分が劣っていることを埋めるために、人の役に立つことで、優位に立とうという発想、というような、ちょっとひどい表現をされることもあります。
このメサイア・コンプレックスは、僕は一時期とてもよく当てはまっておりました。
大きな波と向き合いながら、他者を癒す、他者を喜ばせる、他者を労わる、ということは、時に自分を傷つけることにつながります。
結局、自分は自分で大きな気分の波があることには変わりないので、他者が仮に幸せに笑顔になっていくと、虚しさが出てきてしまうのです。
または、「あれだけ親切に話を聞いてあげたのに・・・」のような、ひねくれた発想が出てくることもあります。
僕がHSPについて知り、ツイッターを始めてすぐくらいの頃は、おそらくそんな状態だったような気がします。
それからしばらく経ち、色々な方々と交流させていただく内に感じたことがあります。
それは、
「僕には人を癒すことなんてできない」
ということです。
「癒すなんて恐れ多い」とでも言いましょうか、
僕の言葉で相手の心の傷が癒えるなんて、いくらなんでも無理でしょ。
と思うようになったのです。
ですが、僕はこのブログでも何度か、「癒しを共有しよう」という言葉を使っております。
それはつまり、一方通行の癒しではなく、「癒し、癒され」の関係が理想だなと考えているからです。
「癒し」という言葉を使うから大袈裟に見えるんだな。
「肯定」という言葉に変えてみたらいかがでしょうか。
「お互いを肯定し合う関係」
それならば、できそうじゃないですか。
そんな中で、僕ができることは何だろうと考えたら、
僕が僕なりに考え、自分の人生を諦めることなく生き続けること、そしてそれを機会があれば少しずつ記録していく、綴っていく。
それが誰かの目に触れて、また、そうやって自分の人生を諦めずに生きる姿を目にして、誰かの支えになれば嬉しいと思う。
それが、しんどい誰かの背中に手を当てる行為につながればいいと思う。
背中を押す、何かのきっかけになれば良いなと思う。
ただ、あくまでもそれは、僕が自分の人生を生きた結果として「そういうこともあれば良いな」というものです。
僕の人生の使命が、「誰かを癒していくこと」というのは、あまりにも困難だと思うし、ちょっと違うと思う。
ですから、ニュアンスとして、「お互いに肯定し合う関係」という方がより現実的だなと思うのです。
日々、死にたい気持ちで苦しんでいらっしゃる方に対し、文字だけでちょっとやり取りしたくらいで、その「死にたさ」が和らぐなんて、そんな簡単なものじゃない。
ODしたくて仕方ない、リスカしたくて仕方ない、しないと生きているのが辛すぎる、という方のOD、リスカをたった数行の文字で止められるわけがない。
それくらい、ODや自傷をしていらっしゃる方は追い詰められている。
それくらい、「死」というものが間近に迫ってきている。
そんな方に、果たしてどんな言葉をかけるのが良いのか。
答えはきっと、ないと思います。
ただの数行の言葉、ただの一言で思いとどまることができる場合もあるかもしれない。
でも、現実にはそうはならないことが多い。
そう考えた上で、「それじゃあ、僕は何ができるんだろう」
と考えると、
追い詰められた方々に対し、特別に何かを発信していくというよりかは、
僕が僕らしく、僕だけの生き方を、僕は僕なりのしんどさを抱えながら、諦めることなくゆっくりと生きていくことが一番なんだろうな
という考えに至ったのです。
もちろん、生きていく中で、先程話した「肯定し合える関係」を築くことができれば、それはとても嬉しいことです。
ですが、それが目的ではなく、あくまでも旅の途中で出会う関係、という感じなのかな。
僕は「自分の状態も不安定なくせに、人を癒すなんてできるはずがない!」という考え方には、どちらかというと否定的です。
つまり、ある程度のメサイア・コンプレックスは、当然のものだと思っています。
自分が精神疾患に罹ったため、「カウンセラー」を目指すということも、当然あってもいい道だと思います。
ただ、僕にとっては、「何となく違うな」と思ったというだけです。
それに、自分が不安定な状態だからこそ、見える景色というものがありますからね。
しんどい、死にたくて仕方ない、という状況にある方に共感できる部分、という意味では、自分がしんどい状態であった方が共感し合いやすいだろうなと思う。
だから、僕は一方通行のカウンセリングなんかは苦手、というか、何か違うなって思ってしまうのです。
あなたはそういうところがつらいんだね。そっか、それはつらいよね。しんどいよね。
僕はこういう時がつらいんだ。
お互いに受け入れ合うと、そこには今まではなかった「癒し」という光が現れるのかもしれません。