「癒し」はきれいごとかもしれない
こんばんは。
今日の2つ目の記事です。
僕は自分で言うのもなんですが、そこまでひねくれた考え方はしていないつもりです。
これも、人によって見え方が違うので、答えはないことですが。
おそらく、あまり人を悪く言うことはありませんし、批判をする、または揚げ足をとる、といったことはほとんどしません。
また、仮にそういった内容を伝える場合でも、うやむやにしたような伝え方はあまり好きではありません。
余分な言葉は使わずに、ストレートに伝えます。
これは、昔からそうであったかどうかは分かりません。
何せ考え方自体が、非常に「自分を卑下したもの」であったため、どんな時でも
「どうせ僕は・・・」「僕なんて・・・」みたいな考え方にたどり着いてしまうのです。
ですから、直接的な物の言い方というものは、ここ数か月で飛躍的に身に着いたのかなと思います。
どうしてこんなことを言うかといいますと、やっぱりそれが一番なのかな、と思うからです。
ツイッターのような文字数制限があるものや、LINEにしても、そこにひねくれた考え方を入れてしまうと、もうそのツイートには爽やかさや、メッセージ性がなくなると思うのです。
「爽やかさなんて必要か?」と思う方も多いでしょう。
また、真っ直ぐな表現をしたところで、見る方にとっては、「しらじらしい」「うわべだけにすぎない」「きれいごとばかり」「理想論ばかり」と、色々と判断をされてしまうわけなので、
せめて、発信する時には、「直接的な表現」を大切にしたいなと思うのです。
ブログのような、多少は長い文章でも受け入れられる場面では、様々な感情を入れても良いのかもしれません。
ですが、それとて、読む側によって解釈が異なってきます。
「ほら、もうここまで言えば、何て言いたいかわかるでしょ?」
と言われたところで、分かる時は分かるし、分からない時は、さっぱり想像もできないわけです。
突然ですが、皆さんは大切な人っていますか?
「大切な人」という言葉を見た瞬間に思い浮かんだ人が、おそらくその人にとっての「大切な人」なわけです。
もちろん、そんな人が複数いても何の不思議もありません。
その大切な人とは、どんな言葉のやり取りをされていますか?
例えば嫉妬という気持ちを持った時に、
「あなたが好きだから嫉妬している」というド直球な言葉を使いますか?
僕は、言われるのであれば、そう言われたいです。
何が言いたいのだろう・・・
ちょっと自分でも、書いていてよく分からなくなってしまいました。
ストレートな表現をして、拒絶されたら、それはそれで仕方ないかなと思います。
しかし、「どうか気づいて?」みたいな表現で、拒絶されたら、何だかスッキリしないと思います。
どうせなら、「あなたのことをもっと知りたい、もっと近づきたい!」というような直接的な言い方をして
「いや、無理」
と言われた方が、爽やかな気がしませんか?
大切な人は、何も恋愛といったことだけでなく、多方面にいらっしゃるかと思います。
その、直接的な言い方と、「癒し」はとても密接な関係があると思っています。
いわゆる自己肯定感が低い方にとっては、「直接自分を認めてもらえる表現」が必要不可欠だと思います。
そんな言葉たちに囲まれる中で、「自分は自分のままで良いんだ」ということを改めて感じることができる。
「全面的な肯定的な言葉」「温かく、真っ直ぐな言葉」「優しい、気づかいにあふれた言葉」
それらに、これでもかというくらいに触れ、包まれることが、大切だと思う。
次第に、心は「よし、少し挑戦してみるか!」という気持ちになるのではないでしょうか。
これは、甘やかしでもなく、まやかしでもなく、しらじらしいことでもなく、「癒し」の方法だろうと思うのです。
生きるか死ぬか、そんな生命の脅威にさらされてしまった方々には、そんな「癒し」に包まれることで、生きた心地を思い出すことにつながると思います。
人はみんなが「セラピスト」だって、僕は思います。
誰もが、誰かの傷を癒すことができる。素敵な関係だなって思います。