あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

思い出の場所

こんばんは。

今日も名古屋は良い天気でした。

昼間は、まだ半袖で十分な気温でした。

11月2日、皆さんはどう過ごされましたか?

 

僕はどういうわけか、足が向く場所があります。

仕事で営業をしていた時、わざわざ遠回りしてその周辺を通っていく。

また、休日にドライブに行く時、一人の時はその周辺をわざわざ通っていく。

様々な職種を経験する中で、比較的、行動の自由がある仕事の場合、わざわざ通っていく。

 

それは、僕が生まれた時に住んでいた実家近く、そしてその近くにある公園です。

 

今、僕が住んでいる実家は、僕が高校生の時に引っ越ししてきました。

同じ市内です。

僕には幼馴染がいます。男の子と女の子。僕ら3人は、全員、同じ年離れた兄、姉、がいた。

つまり、僕の兄にとっても、幼馴染ということになります。

男の子と僕の家は隣。女の子の家は、狭い道路を挟んだ向かい側。

幼稚園から中学校まで、一緒でした。

幼稚園や学校から帰ってきたらすぐに遊びにいく。

 

また、幼稚園は違いますが、近所にも同じ年の離れた兄を持つ友人が、3~4人はいたかな。どういうわけか、みんな2つ年上の兄貴がいるんですよ。

そこに、同じ町内の友達が集まり、10人くらい。

毎日、学校から帰ったら、集まる。

あの公園へ。

 

その公園は、3ブロック×3ブロックくらいの広さで(1区画の大きさはもちろん、場所によって違うので、想像が難しくてすみません)、半分が林、半分が遊び場になっていました。

ブランコやすべり台といった遊具ではなく、登ったり、滑ったり、駆け上がったり、飛び降りたり、大小、様々な形の島がドーンとあるのです。

 

公園は、僕の家を出た道路を真っすぐに南に進んでいく、4ブロックほど先にあった。

歩いても5分とかからないくらい。

もちろん、僕たちは走る。誰が先に着くか。

そして、その公園に行く途中に1軒の小さな駄菓子屋があった。

親から50円をもらい、走ってその駄菓子屋へ行く。5円ほどのものから、だいたいは10円、高くて50円(そんなのあったかな?)

毎日買えるわけじゃない。特に僕の両親の場合は、月に何回といった定期的なお金の渡し方ではなく、気分だったからだ。

機嫌が悪ければ、遊びに出ていくことすらできないこともあった。

 

しかし、1歩、外に出た時の解放感は、今振り返れば、当時の僕は親に対してとてもビクビクしていたことに気づく。

外に出て、隣の幼馴染と待ち合わせ、次々と友達が駄菓子屋の方向に向かって集まっていく。

ファミコンといったゲームがまだなかった時代、遊ぶとしたら、外で遊ぶ以外は考えられなかった。

公園に着いたら、それぞれに買った駄菓子を食べながら、走り回る。

遊び方は色々だった。鬼ごっこから、かくれんぼ、缶けり、遊びによっては地方で名前が違うので、それ以外の遊びについては名前は書きません。

また、基本的にほとんど道具は必要ない。線が必要ならば、石で土の上に書く。

缶けりでも、缶が見当たらなければ、その辺にある大き目の石を使う。

 

だが、僕はそういった遊び方をした、という事実しか覚えていない。

その時、どんな気持ちだったのか、どんなことを友人たちと話していたのか、それが思い出せない。

でも、先に触れたような、家の外に出て自由に遊ぶ(親の目がない状態)ことでの解放感は覚えている。

 

それから、小学校2年生の頃、ファミコンが僕の家にも届いた。しかし、そんなにカセットを買ってもらえるはずもなく、友達に借りるか、友達の家で遊ぶか、そして公園で遊ぶか、という感じに少しずつ変わっていった。

また、学校においてクラス替えによって、また違った友人ができてきたことによって、少しずつ、同じ町内、同じ仲間たちが集まる頻度が減ってきた。

そして、遊び方もファミコンガンダムのプラモデル、といった、室内での遊び方に変わっていった。

遊ぶ相手も変わっていった。遊び方も変わっていった。

 

あの公園に行く機会は、極端に減っていった。

 

中学生になり、学校は一緒でも幼馴染とは、クラスも違うし部活も違うため、会話をすることがなくなっていた。

そのまま高校生になった。お互いに、どこの高校に行ったのか知らないまま。

 

もう1人の女の子の幼馴染とは、幼稚園や小学生の低学年くらいまでは遊んでいたが、やはり女の子同士で遊ぶことが増えたので、自然と離れていった。

 

社会人になり、僕はどういうわけか、あの時住んでいた家(今は別の人が住んでいます)、そして公園までの1本の道に、行きたくなるんです。

道路が狭いため、車を停めてゆっくりと歩く、なんてことができないのが残念です。

営業の外回り中に、寄り道して、わざわざ、その公園の前を通る。

少しスピードを落として。

蘇る、あの頃の風景。友人の顔、にぎわった公園、そして駄菓子屋。

僕は多分、あの場所で何かを落としてしまった気がするのです。

 

思い切り走り、思い切り笑い、思い切り叫び、思い切り感動する。

 

あの公園から遠ざかるにつれ、そんな体験が減ってきたように思える。

あたかも、まだあの公園に、昔の僕がいるかのように。

そして、今の僕に見つけられるのを待っているかのように感じるのです。

 

皆さんにも、小さい頃の思い出の場所ってありますか?

また、どうしてか行きたくなる、行かなければいけないと思うような場所がありますか?

 

自分を生きるということが、忘れ去られてしまった時期だったのかもしれない。

もう一度、足を運んでみよう。

 

友人たちが離れ離れになっていくのが悲しかった。家が隣なのに、一言も会話をしなくなったことが悲しかった。

あの公園に、みんなで集まることができなくなったことが悲しかった。

昔の僕は、あの公園でまだみんなを待っているのかもしれない。