つらいことを思い出せない
こんばんは。
今日は、また夏に戻ったような良い天気で気温も高くなりました。
これから一気に寒くなっていくと考えると、憂鬱です。
寒いのが苦手なのですが、毎年、いきなりグッと冷え込みが強まる時があって、それで気分も滅入ってしまいます。
それでも、そのような寒暖差があることによって、おいしい冬野菜が育つわけですから、旬の食材を楽しみながら、寒さを乗り越えたいなと思います。
さて、たまには心の話じゃないことについても書きたいなぁ、って思っていました。
でも、どういうわけか、あまり書く気がしないんですよね。
言葉が出てこないのです。
例えば、食べ物の話をしたいな、と思って、冒頭に旬の食材に触れてはみましたが、僕は「食」を楽しんだことが、あまりないということに気づいてしまいました。
ご飯を食べて「あー、おいしいなぁ」「幸せだなぁ」という気持ちになったことは、もちろんあります。
ですが、笑いあって話をしながらご飯を食べた記憶って・・・、
思い出すのがつらいなぁって思ったのです。
元妻との生活の時は、子供と3人で笑ってご飯を食べ、色々な話をしたこともあります。
そういった小さな幸せが、離婚ということによって「思い出したくないもの」となってしまった。
それは、おそらく元妻にとっても同じかもしれません。
あー、これって、僕はその悲しみ、寂しさ、思い出のはかなさ、切なさを共感し合える人がいないんだなぁって思います。
度々、ブログでも触れていますが、同居している両親は、僕のことを、ただ甘えている・怠けている・できるのにやらないだけ、という見方をしております。
僕がどういった心境でいるのか、など、知ろうともしません。
離婚を経験したことのない、子供と離れ離れになったことのない両親には、到底、理解できるものではないのでしょう。
これまでに経験した「楽しい体験」は、どうしても最初の妻や、元妻、そして子供と切り離すことができず、思い出すことが怖いのかもしれません。
その感情を、誰が受け止めてくれるのか・・・。
両親にとっては「もう過ぎた話」、それはその通りだ。過ぎたことですが、あまりにも感情というものを軽視しすぎていないかな。
だからこそ、僕が考えることは、やはり精神の話題になってしまうのです。
「過ぎたことは悩んでも仕方ない」という言葉で、相手を動かそうとしてしまう、そんな行為が無くならないのは、やはり個人の感情に目が向けられていないということ。
もっと、深いところを見つめなければな、って思うのです。
もっと早くに、自分の親が反面教師であることに気づけばよかったのにな。
心が安らぐ場所か・・・、
そんな場所を目に見える形で作っていくことが、当面の目標です。
自分のためにも、そしてそんな場所を必要としている誰かのためにも。
さしあたって、愛知県内でそういったお話会を開くつもりです。
興味のある方は、お気軽に声をかけてくださいね。
そして、、、なかなか誰も言ってくれないから、もう自分で言っちゃう。
僕はけっこうすごいんですよ!
なぜって、よく分からないけれど、時々、死んでしまった方が良いのかも、とかいう波に向き合いながら、離婚調停もしてたし、就職活動もしてたし、自分に「安心感」が欠けていると気づいて、それに共感してくれる方々と出会えた。
って、一応、すごいとこアピールはしてみましたが、
毎日だったり、間隔があいたりと人それぞれでも、「死んでしまった方が良い」という衝動に襲われながらも、生きている。
それって、めちゃくちゃすごいことなんです。
すごいとはなかなか思えませんよね?
周りは同じような気持ちになったことがありませんから、苦しさが分からないのです。
また、「死にたい」と思ってしまうことに対し、「逃げ」という解釈をする人も多いようです。
そのような人たちに囲まれながらも、生きていらっしゃる。
とんでもなく強く、力のある心だと思います。
理解をする術がない方々に理解を求めるのではなく、共有し合える場所を作って、安心感を育てる。
自然な形で、お互いを「褒め合う」ような環境が必要なんだろうなって思います。
こうしたブログで発信することで、安心して治療に臨めるような、空間が共有できたらうれしいと思います。
いつも、つながってくださり、本当にありがとうございます。
なんか、またよく分からない、まとまりのない記事になってしまいました。
それでは、また明日。
おやすみなさい。