あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

素朴な疑問の大切さ

こんばんは。

 

えっと、今ちょっと子供のことを考えてしまっておりました。

いや、正確には「今」に限ったことではなく、常に考えてはいるのですが、時折、強烈に考えてしまいます。

さて、離婚決定後の最初の面会はいつになるのか。

まだ決まってはいませんが、どんな気持ちなんだろう。元気かな。

 

 

僕は主にプライベートな場面で

「もっと早くああしておけばよかったのに・・・」

というような言葉をかけられることが多くありました。

それは、両親にも、2人の妻にもです。

特に精神疾患にかかってからは、回数が増えたように思えます。

 

提出期限があったり、支払期限があるなどのものであれば、早目に準備しておくということは必要でしょう。

ですが、例えば出かけるのが少し遅れて、渋滞にはまってしまった時に、「もっと早く出ていれば・・・」と言われたところで、もう仕方ないと思います。

それも少し軽い感じで触れられるならまだしも、それで機嫌が悪くなったり、またそれを後から蒸し返してくるのは、どうなのかなぁって思うのです。

だいたい、行動するタイミングなんて、そう簡単にピタリと合うはずがありません。

子供がいたら、出かける寸前に「うんちー」とか言いますし、

自分もお腹が痛くなるかもしれません。

そんな時に「お腹が痛くなる人が悪い!」なんてことは考えないでしょう。

「ちょっとお腹の調子が悪かったんだねー」で良いのではないでしょうか。

 

精神疾患によって、仕事ができなくなったり、家事ができなくなってしまってから、僕は周りの人たちから、「目に見える形での行動」を非常に求められてきました。

今でもそうです。

「目に見える行動」とは、外に出かける、体を動かすなどのことです。

頭を使っている行動は、行動とはみなされない。

むしろ、「頭を使っている時間があるから、深く考えてしまうのだ」と言われる。

 

僕は、過去の記事にも書きましたが、「どれだけ忙しく動いていても、頭はフル回転」な状態です。

仕事が忙しい時にも、仕事のことも考えながら、色々なことを考えます(例えば、上司の機嫌とか、隣の席での電話の声とか)。

なので、目の前のことを「無心」にやるということが、生まれつき不可能です。

 

と、ちょっと話が逸れましたが、とにかく「目に見える行動」を求められることは非常に苦しいです。

 

先に僕が思うことを書きますと

「行動をすることでこそ、何かが変わる」ということは事実です。

ただ、それは「目に見える行動」だけが行動とは考えていません。

自身の考えについて整理することも行動ですし、睡眠も行動、瞑想も行動です。

また、仮に外部との接触をするとしても、タイミングがあると思っています。

 

いつだったかの記事に、「面接を受けるタイミング」なんかがあるよー、という話をしましたが、

そんなタイミングって、実は非常に重要です。

そして、そのようなタイミングは人それぞれ違いますし、違って当然です。

 

ですから、寝てばかりいる人を見て、

「いつまでそんなことやってるの!少しは体を動かさないと!」

と言ったところで、既にその人は「睡眠」という行動をしていますし、体を休めるという行動をしています。

そして、「それじゃあ、散歩にでも出かけようかな」というタイミングもあるのです。

 

寝てばかりだからといって、永遠にそれが続くわけじゃない。

そこを非難したり、お荷物のような見方をしてしまうので、状況が改善されないのです。

寝ている人の、「あ、今日はちょっと散歩行こうかな」という、「ふと」を周りが潰してしまう。

 

やはり、周りの人の声かけというのは、子供の頃からとても重要だと思います。

「泣いていないで、とにかく片づけなさい!!」

とばかり言われていたら、

「なんで今じゃなきゃダメなの?」

「なんで片づけなきゃダメなの?」

「なんでお母さんは片づけないの?」

のような根本的な疑問が、浮かんでこなくなってしまいます。

 

どこかで聞いたことがあるのですが、「すごく面白いな」と思った話があります。

?人間にできて、他の動物にできないことは何?

何だと思いますか?

おそらく、答えは1つじゃなくて、色々とあるかと思いますが、

 

「言いわけ」です

 

なるほどなぁって思いました。

 

先ほどの話に戻ると、母親から「とにかく片づけなさい!」と言われた時に、

「えっ、だって後で使うから」

「お部屋の掃除はお母さんの仕事でしょ?」

「これ、僕が出したんじゃないよ」

といった言いわけって、物凄く大切なんだなって思いました。

 

そこを、圧力で抑えられてしまうと「言いわけ=悪いこと」という捉え方が出来上がってしまいます(まさに、僕がそうだったわけですが)。

言いわけという、人間が本能的にするべき行動ができなくなってしまうと、いつの間にか、「言いわけ」すら浮かばなくなってしまいます。

 

最初の方の話に戻すと、出かけるタイミングが遅くなり、渋滞にはまったとしても

「僕はこのタイミングで良かったし!」とか

「僕のせいじゃないし」

といった言いわけをしても、何もおかしくないことだと思うのです。

もちろん、その言いわけをしたことにより、ケンカとなる場合もあるでしょう。

ですが、言いわけができずに、ただ「ごめんね」しか言えなくなってしまったら、どうでしょうか。

とても苦しいだろうなって思います(というか、僕がそうだったのですが)。

 

「目に見える行動」から、何だか話がズレてしまっているように見えますが、

例えば「寝てばかりいないで、外に出なさい!」「そろそろ働きなさい!」

と言われたとしても、「今はその時ではない」とか言ったって良いのです。

 

「今はその時ではない」って何だか偉そうな口調ですが・・・(笑)

「今は気持ちの整理をしている時なんだ」とか、「外に出るにはもう少し休養が必要」といった言いわけというか、説明をすることが大切なのかな。

そして、家庭環境によっては、そういった説明すらできない、聞き入れられない環境もあるんだろうなって思います。

それは、やはり幼い頃からの親子関係の中で、自分の気持ち、自分の言いわけを拒絶されてきたこと、または無視されてきたことに原因があるのかな。

 

僕は、どちらかと言うと、そのような感じで育ってきました。

ですから、寝てばかりいた時に、「今は外に出る時期じゃない」と言ったところで、何の理解もされませんでした。ただ怒りを買うだけでした。

 

しかし、自分が色々と苦しんできた中で出てきた「今は外に出る時期じゃない」という言葉を、拒否するような人には、どんな話をしたって通じません。

 

だからこその、

何を言ってもいい空間、場所、時間、人、が大切なんじゃないかと思います。

素朴な疑問を素直に尋ねることができる。

そんな状態を取り戻していくことが、「僕らしさ」を再確認していくことにつながるんじゃないかなと思います。

 

そんな空間を、作っていきませんか。

 

だいぶ長くなってしまいました。最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

それでは、また明日。

おやすみなさい