あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

荷物の整理

こんばんは。

今日は弁護士の先生と、対面での最終の面談がありました。

先日、離婚調停により、何とか離婚成立となりました。

その際に決められた、養育費などの条件について、再度整理する。といった話し合いでした。

 

最初は離婚成立は難しいと、先生もおっしゃっていましたが、何とか成立にこぎつけました。

あとは、僕の仕事です。

もちろん、仕事が決まるだけでなく、収入の安定が重要となってくるわけです。

 

今日の記事としましては、ある意味、理不尽だなって思っていることを書きたいと思います。

度々、記事の中で両親や元妻のことについて触れております。

やはり精神疾患を患い、日常生活に支障が出てしまうようになった原因として、僕の思考のクセ、というものが挙がってきます。

認知の歪みといった言葉を使ったりしますが、

しかし、それはあくまでも「個人の問題」となっていました。

認知行動療法を取り入れたカウンセリングを受けたこともありますが、結局、根本は何なの?ってなった時に、「個人の問題」ということで済ませていいのかな?

と思うのです。

 

僕が疾患を発症した当時は、まさしく認知の歪みなんて「個人の問題」であり、他の人ではどうしようもないこと。とされていた。

そのため、認知行動療法での成果が出ないとなると、個人の理解の問題、努力の問題、として捉えられる。

「考え方を変える」という表現が、あまりにも乱暴に無責任に使われているな、と思います。

 

今、色々と考えていく中で、

「ただその場、その時の考え方を変えただけでは、何の解決にもならない」

と思います。

視点を変えてみる(例えば、ネガティブな部分の中に、ポジティブな部分を見つける)とか、そういった方法も、一時的には、瞬間的には、それなりに効果があるのかもしれない。

でも、そんなに人間の考え方、思考は簡単には変わるはずがありません。

 

しかし、僕はこれまで家族や元妻、職場の人たちにも、

あたかも切り替えるスイッチがある、かのように思われ、そのスイッチをうまくコントロールすることができれば大丈夫ということを言われた。

 

人間はロボットじゃない。

とは言いつつも、僕もそれなりに頑張ってみました。

「やっぱり、僕の受け止め方がダメなんだな」「僕の考えていることは甘い、弱い、未熟なんだな」

そう思いながら、何とかして、いわゆる「認知の歪み」を修正しようとしていた。

 

でも、変わりませんでした。

今振り返ると、変わるはずがないんです。いや、変えてしまってはいけないんです。

 

もちろん、「変える」という言葉を使いましたが、

ポジティブな部分を探してみる、とか、色々な視点から物事を見てみる、といったことはなかなか重要であり、それらは身に着けることは、とても大切だと思います。

ですが、僕は「変われ」という圧が凄すぎて、

元妻(2人とも)に至っては、事あるごとに、「そういう考えがいけない!」と言われておりました。

 

今でも、「考え方を変えなさい」という言葉を使うのかどうかは知りませんが、時として、本当に人を追い詰める言葉である、ということを理解した上で、使うようにできたらいいと思います。

 

ある物事に対して、一番最初に思ったこと、一番最初に感じたこと、それがその人のオリジナルなものなのです。

それを否定してはいけない。それを否定することは、その人の存在を否定しているのと同じこと。

しかし、「受け取り方を変えてみたら?」と言う人は、その言葉の重さが分からない。

そこに命の危機がかかっているなんて、本当に思いもつかないでしょう。

 

それほどに弱ってしまった精神には、「変えろ」とか「違う視点で」とか「広い視野で」などと言っても意味がないと思う。

まずは、その十分に弱って、ビクビクしてしまい、傷つきまくったその心を認め、受け入れてあげる必要がある。

そして、出てくる気持ち、感情を一つずつ、受け止める。

どうして、そういう気持ちを持ったのか、それも聴いてみるといい。

ゆっくりと、時間をかけて、一つ一つの感情と向き合う。一人ではできません。

だからこそのカウンセリングでしょう。

しかし、カウンセリングの時間は決まっています、お金もかかります。

 

支えたいのであれば、否定や批判などする必要はない。反省を促す必要もない。

ゆっくりと、冷静に、感情に目を向けていく。そして、それらを受け止め、認める。

ひたすらに気持ちを受け入れてもらえたと実感できたら、

自然と前向きな言葉が出てくると思うのです。

もちろん、いきなり前進などできません。まずは立ち上がれたなら、十分だと思います。

絶望ではなく、ほんの少しでも、希望が見えたら十分なのではないでしょうか。

 

今、まさにカウンセリングっていうか、「僕ならこうやって話をしていくかな」

という流れで書きました。

 

命を脅かすほどの苦しみ、絶望感、死にたい衝動、怒り、破滅、悲しみ、むなしさ、やるせなさ、

それらは人とは比較などできません。

もちろん、そういった重荷は誰もが背負っています。

ですが、その重荷に耐え切れずに、立ち止まってしまった人は、他の人と比べて弱いわけでもなく、忍耐が足りないわけでもありません。

そこで、立ち止まり、重荷を整理する必要があったから、立ち止まったんです。

その人には、まだまだレールは続いています。

重荷を整理するのに時間がかかっても問題ないのです。

また、立ち上がって歩くための道が続いているのだから、そして、その道は、誰と比べる必要もないのです。

また歩けるだけ歩けばいい。疲れたら、また休めばいい。

そんな時に、重荷の整理を、少しだけでも手伝ってくれる人がいたら、嬉しいですよね。

一人で整理するのは、とても苦しく大変。

癒しって、そういうものなのかなって思うのです。

立ち止まって、一緒にお互いの荷物を整理し合っても良いじゃない。

 

なんだか、話が色々と飛んでしまい、すみません。

 

温かく、優しく、支え合って生きていくことが、当たり前になればいいですね。