あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

無条件の安心感

こんばんは。

昨晩は、ブログを投稿した後、急激に自分の存在の虚しさを、感じてしまいました。

記事の内容も、結構、切なくなる内容でしたから・・・。

寝る前になり、今まではあまり考えたことがなかった、睡眠薬の大量服薬を考えました。

実際に大量の睡眠薬を前にし、ふと思ったのです。

 

「なんで、僕が死ななきゃいけないんだろう・・・」

 

その睡眠薬で死ねたかどうかは別として、これまでに何度も記事で取り扱ってきたような「生きていてはいけない」気持ちを持ってしまうことが、とても理不尽に思えたのです。

僕の周りにいる人々の誰もが、決して僕を死に追い込もうとしているわけではないと思います。もちろん、受け手側の僕には「追い込まれていく」ように感じてしまうわけですが。

衝動が強まると、冷静に考えることができなくなります。そうなると、やはり多少は手荒な行動で自殺を止めなければならないわけですが、周りの誰にも悟られることなく、消滅させてしまいたいという気持ちが強まることは、非常に苦しいことですし、悲しいです。

一人寝室で、その衝動に駆られたらどうなるか。

 

 

とりあえず、昨晩はふと、その状況の理不尽さに憤りを感じたのです。

思いとどまるには、特別な気持ちや志、責任感とか、生き甲斐、のようなきれいごとでは、止めることはできません。

もう何もかもが、どうでも良くなりますし、全てが「僕がいない方が幸せになる」という気持ちになってしまうからです。

自分の子供でさえ、例外ではありません。

 

それほど、衝動は激しく、絶望的で、破壊的なものなのです。

 

僕は「死んでしまいたい、自分なんていない方が良いんだ」と追い込まれてしまう環境は、絶対にあってはいけないことだと思っています。

しかし、現実の社会では、そういった環境がなくなることはなさそうです。

また、そこまで大きな問題ではないという認識が強い気がします。

人が生きている、生活している、という事実が物凄く、軽い・・・、とまではいかなくても、

うーん。

なんか、条件付きな気がするんですよ。

例えば、

親の手伝いをした子供に、「手伝ってくれてありがとう」って伝えます。

次に、その子が体調が良くなく、手伝えない状態の時、

親が「手伝えないなら、ご飯あげないよ!」

みたいなことを言う。

この例えはちょっと可哀想な話ですが、

昔から当たり前のように言われている「働かざる者食うべからず」です。

 

働いて、収入を得たなら、安心して生活していいよ。

そうでなければ、出ていきなさい。

 

ということが、あまりにも当たり前に言われすぎている気がするのです。

また、子供の頃には、「これくらいできなきゃダメ」と言われてきた。

何かができるようになったり、何かを学んだり、良い学校に行ったり、という条件がなければ、心を休めてはいけないという。

僕は、もちろんそのように強く考えていました。

そして、「働かざる者」に自分がなるなんて、絶対にあり得ないと考えていました。

 

最近になり、生命を度々、脅かされる中で、この考え方が物凄く偏っており、理不尽なものだと考えるようになりました。

 

学校で良い成績をとらないといけないなんて、誰が決めたの?

良い学校を出た方がいいなんて、誰が決めたの?

正社員にならないといけないなんて、誰が決めたの?

収入を得なければいけないなんて、誰が決めたの?

 

もちろん、「生きていくため」という答えが返ってくると思います。

でも、別にそうでなくても、生きていけると思います。

 

できなくたっていい、知らなくたっていい、仕事してなくたっていい、給料が安くたっていい、結婚できなくたっていい、

何も持たなくても、何もできなくても、何も稼ぎがなくても、

 

安心して生きていていい。安心してご飯を食べていい。安心してお話していい。安心してお風呂入りな。安心してテレビ見な。眠たくなったら、安心しておやすみ。

 

そんな無条件の安心感を、生まれた時からずっと伝えられていたら、

きっと、新しいことや難しいこと、苦しいことに対しても、「安心して」挑戦できるのではないだろうか。

 

その無条件の安心感を、親もしくは周りの大人がどれだけ気づいているか。

重要だと思っているか、生きづらさの差はそこらへんにも出てくるのかなって思っています。

 

じゃあ今、僕はどうしたらいいんだろう。

僕はそんな無条件の安心感は持っていません。そこで重要になってくるのが、新しい人間関係なのかなって思うのです。

まず、その無条件の安心感が欠けている、という認識が持てただけでも、大きな進歩だと思います。きっと今の視点から見渡せば、今までとは全く違う人たちに気づくことができると思います。

「お互いに」無条件に安心して、過ごせる人、空間、場所

これって、もしかしたら、必要としている方が多いのではないでしょうか。

HSPの交流会や、様々な疾患の交流会、お茶会、はたくさん開催されていて、それも安心感を得られる場所であると思います。

 

 

僕には、少し前からなりたい人間像っていうのがあります。

この年になってなんだよ、って笑ってやってください。恥ずかしながら、これまでの僕は、「年収〇〇円」とか「何歳には部長で」とか、そういうところにしか目がいっていませんでした。

 

僕のなりたい人間像

どんな縁でも良い、職場でも近所でも道端で出会っただけ、でも良い。

「あの人に聞いたら、何か分かるかも。いや、分からなくても、解決しなくても、もしかしたら心が軽くなるかもな」

っていう感じで、話しかけられるような人間になりたいなって思うのです。

 

そこにも、安心感が大切だと思っています。僕と話すと、なんだか安心する、そう言われると嬉しいのかもしれません。

もちろん、そんな人間像は、(恥ずかしながら)最近、思いついたものですから、まだまだ実践はできていません。

 

どんな仕事をしていようが、どこに住んでいようが、そんな存在になれたら良いなと思っているのです。

 

今日も本当にありがとうございました。

昨晩は、ご心配おかけしました。

また、いつ落ちるかもしれませんが、少しでも誰かの安心につながれば嬉しいです。

気軽に話しかけてくださいね。

 

今日も、つながってくださり、ありがとうございました。

明日も一人じゃないよ。安心して、おやすみなさい。