生きていてはいけない衝動への対処
こんばんは。
昼の記事は、スマホで投稿したこともあり、気づかなかったのですが、読者さんが一気に増えたようで、びっくりしています。
それと同時に、あんまり下手なこと書けないなーなんて、思うわけです。
とは言いつつも、ブログの基本方針としては、ツイッターの延長という位置づけで、思ったこと、思ってきたことを特にこだわりなく書いていきたいと思っています。
今後とも、なにとぞよろしくお願いします。
さて、今日の夜の記事としましては、死にたい・消えてしまいたい気持ちについて、今の僕が思うところを話したいと思います。
いくつかの記事にて、僕が度々「生きていてはいけない、消えた方がいい」と思ってしまうことに触れてきました。
そのような極限状態において、おそらくどんな慰めも、励ましも、時には寄り添いさえ全く効果がないこともあります。
僕は現妻と生活していた頃は、働いていても小遣いゼロ、外での仕事でしたので、パーキング代もない状態で、駐禁の取り締まりにビクビクしながら仕事をしていました。
病院代も出し渋られることもあり、もらえても必要な額の半分しかもらえなかったり(病院にお願いして、何度かツケをしてもらっていました)。
昼ご飯は、ほとんど無し。週末にスーパーに行った時に、半額シールの貼ってある菓子パンを1週間分買い、持っていくとか。
子供がおり、保育園の送り迎えや、急な病院は、僕がやっていました。
保育園で、他のお父さんがビシッとしたスーツで子供を送り、出勤していく。
そんな方々を見て、自然とその方々との間に、大きな隔たりがあると感じてしまいました。
家に帰れば、妻に発破をかけられ、苦しさをアピールされていた。妻が言うには、僕に散々振り回されて、自分がおかしくなりそう、ということだった。
そして、僕にはそれが、何となく理解できてしまった。
そのせいか、事あるごとに、「いない方がいいんじゃないか」という極論を考えてしまうのです。
さて、前置きが長かったのですが、この自分の存在を否定してしまう考え方は、人それぞれですし、現れ方も違ってきます。
だからこそ、そうしたツイートが発信された時、僕はただ黙るしかなくなってしまうのです。
これからの内容は、あくまで「僕ならば」という前提で話します。
そして、もう既に色々な方が展開されている内容だと思います。
僕は、ここ最近の「生きていてはいけない」感情に向き合っていく中で、確信したことがあります。
もうどうしようもない心を、唯一救えるのは、自分の心だけだと。
確かに、誰かに相談することで、ある程度の共感や寄り添いをしてもらえると思います。
ただ衝動がひどくなってしまうと、人に助けを求めることすら無意味に思えます。
話すっていったって、何から話せばいいのか。そして聞きたくない返事が返ってきたら、更に落ちていく。
また、そのような気持ちを真剣に相談できる人が、なかなかいないこともあるでしょう。
極限にまで追いつめられると、通常だと支えになるような言葉ですら、ナイフに置き換わってしまいます。
残念ながら、妻と生活していた時は、冷静な対応が全くできず、破壊的な行動に出てしまいました。
今は、少しは冷静になり、破壊的なことはしなくなりました。
今の僕は、極限状態の時、人が思い浮かんできます。誰でもいいのですが、だいたい、出てくる人は決まっている。
心の中で、ひたすらに絶望し、ひたすら悲しみ、ひたすら自分が嫌になり、そんな中、ふと思い浮かんだ人、
「苦しいよ、悲しいよ、寂しいよ・・・、寂しい、そして孤独・・・」こんな苦しい感情をひたすらに感じる、
そして、その人に「浮かんできてくれてありがとう」と心でつぶやく。
これを繰り返す。
そうしていると、少しずつ「生きていてはいけない」気持ちを遠くで眺めるようになります。
もうその気持ちに支配されなくなる。その時は。
僕にとっては、ふと浮かんできたことが「人」であったわけです。
何が言いたいのかというと、そんな極限状態においても、心は動いているのです。
どんな小さなことでもいい、たいてい、そんな状態の時は音楽や本などに触れることすらできません。もう、それこそどうでもよく思ってしまうのです。
そんな時に、記憶に残る、景色や言葉、人の顔、場所、香り、一部分だけ取り出して、「キレイだったな、うん、キレイだった」
その、キレイだと思う通り、心が動いていることに注目してください。
もちろん、記憶に残るものを引き出してくることにより、嫌な感情が更に増えてしまうということは理解できます。
ただ、極限な状態では、ただひたすらに一部分の感情に注目する。
後のことは、立ち直ってきたら、考えたらいいと思う。
そうやって、自分の心の内側の世界を充実させていくことが、とても効果的なんだなと思うのです。
実体験を経て、本当にそうだったんだと実感できたのです。
記憶の中にある感動は、無限に広がると思います。
一目惚れでも良いんです、片思いでも良いんです。心に存在してくれていることがありがたいのです。(その方本人としては、とてつもなく迷惑かもしれませんが)
そういった自分の心に避難所を作ると、この先、社会に復帰してからも役に立つのだろうなと思うのです。
なんか、理屈っぽい記事になってしまいました。ま、いっか。
誤解して頂きたくないので、あえて話しますが、「死にたい」気持ちに支配された時に、「人に頼るのは意味がない」とか「自分で何とかして」ということが言いたいわけではありません。
あくまで、僕なりの「生きていてはいけない」衝動と向き合っていく中で、
起こりうることとして、「慰めや共感も効果がない」ということを書きました。
どうか、生きていてはいけないと思ってしまうほど、繊細で敏感で温かいその感性を、愛していきましょう。
「自分なんていないほうが周りが安心する」
追い詰められているにも関わらず、周囲への迷惑、配慮を考える。とても素敵な、かけがえのない感性だと思うのです。
何気ない誰かの一言で、命が奪われることもある一方で、何気ない表情、景色、言葉で、救われることもたくさんあると思います。
今日も、一人じゃない
寂しく思っても、悲しくても、孤独でも、怒りばかりでも、そんな僕は決して一人じゃない。
少しだけ、自分の心に光を見てみませんか。
安心して、今日もおやすみください。
長い文章を読んでいただき、ありがとうございます。
明日も、一人じゃないからね。
おやすみなさい!