あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

大学生活から就職活動

こんばんは。

台風の影響はいかがですか?

名古屋では一日中風が強く、ときおり激しい雨が降りました。

幸い、僕が住んでいる尾張旭市名古屋市の隣)は、昔から雨が少なく、様々な台風や大雨の時も、そこまで深刻な状況にはなりませんでした。

そんなこともあり、大きな災害があった場合に自治体がどう動くのか不安でもあります。

 

さて、今日はうつの発症と、その発端となったであろう大学生活(今だからわかることですが)について話したいと思います。

 

昨日の記事にも書きましたが、大学生活は友人を作るのに苦労をしました。また、彼女であった前妻も同じ大学であったため、とりわけ女性の友人は一人も作ることができませんでした。

前妻とは、学部は違いましたが、広まるのは早いものですね。

その頃の前妻との付き合い方と、友人が作れない、ということが僕にとって、うつを引き起こす最も大きなポイントだったのかなと思います。

まず、前妻との関わり方ですが、完全に自分の意見ではなく、相手の意見で動いていました。高校生の頃はそれはそれで楽しかった気がしますが、振り返ると、本当に自分の考えがありませんでした。

それを強調することとして、相手の考えが常に僕よりも優れており、正しい、というよく分からない錯覚を信じ込んでいたのです。

また、相手を優先させ、相手の思うとおりに行動することが、優しさだと思っていました。そんな自分を、柔軟に対応できる人間だと思っていました。

そういう意味では、相手に「私の言うとおりにして」と言われたわけでもなかったため、自分で選んだ行動であったことは確かです。

前妻との関わりがストレスになっていたとはまるで考えていませんでした。

なぜか、おそらくバイトでうまく発散させることができ、バランスが何とかとれていたのだろうと思います。

 

それから、友人が作れないという点です。

前妻との関係と似たようなものですが、大学生になった時、周りの全ての男子が、全てにおいて少なくとも僕よりは優れている。という、これまた超極端な考えを持っていたのです。

容姿、服装、話し方、声、考え方、性格、どれをとっても周りがすごく見えたのです。

劣等感の塊だった僕は、何とかグループに入るものの、決して話さず聞いているだけでした。いてもいなくても、何も変わらない。

また、そういった悩みを相談できる人もいませんでした。

「そんなことないよ!」と言ってくれる人もいませんでした。

 

そんな感じで大学生活を送っていたわけですが、実は大学入学当初、僕は教師になりたいと思っていました。これは本当に「なれたらいいなあ」という程度でした。

何の教科を教えるのか、そんなこともまるで考えていませんでした。

そんな流れで、大学では教員免許を取得するために必要な講義を受けました。

なので、基本毎日朝の1コマから最後まで、びっしりと入っていました。

経済学部では、社会の教員免許が取れました。そこで、僕は比較的得意だった世界史を選びました。

なぜか、その時点で既に高校教師と決まっているという・・・、もうね、全てが中途半端だったんです。

その教員免許も、3年生の時に行う、教育実習で見事にボロボロになりました。

しんどいしんどいしんどい!!!

教えることは、比較的得意で、生徒からも分かりやすいって言ってもらえて、それなりに生徒とも仲良くなれたのですが・・・、実習が終わった瞬間、生徒たちの名前、一人も思い出せないのです。

学年も、クラスも!

世界史のどの部分を担当したのかすら、一瞬で記憶がなくなりました。

完全に消したかったんでしょうね。ほぼ毎晩徹夜で、授業の準備してましたから。

「そんなことで諦めるな」と言われて仕方ありません。

 

ただ、僕は教育実習と並行して、就職活動もしていました。

そんなことも体や心に大きな負荷がかかっていたんだろうなと思います。

 

うー、、、今日は発症までは話せないな。ごめんなさい。

結局、僕は教育実習で「もう無理!」って思い、就職活動に力を入れるようにしました。

そんな中、内定をいくつか頂いたのですが、最終的に決めたのが、JA(農協)でした。

めでたい!そうです、めでたかったんですよ、一応は。

だって男性の多くは、定年まで働いているところでしたから。

女性は寿退社が多かったようで、いわゆる昔ながらの空気、環境でした。

同期は僕も含めて12人だったかな。僕が最初の脱落者になったわけですが笑

最初に配属された部署は、お米の販売をする部署。

とはいえ、最初の部署では外回りでの営業というわけではなく、会社が売るためのお米の原料を仕入れる仕事でした。

北海道から、鹿児島まで、毎日朝から夜まで、電話、メール、FAXしっぱなしでした。

最初の部署は、全員が事務所作業でした。そこで、入社20年くらいのお局さんの目に僕がとまったわけです。

 

「電話の声が気持ち悪い」「愛想笑いが不気味」「トイレ長すぎるんじゃない?」

「とにかくつまらない」「笑った顔が気持ち悪い」

また、僕が席にいなかった時に、僕宛の電話をお局さんが取った際、メモで僕の名前の漢字をわざと間違える。電話があったことを教えてくれるのがかなり後。

パワハラですね。

その部署に2年いました。最初の1年はなぜかしきたりで、入社1年目は始業の1時間前に出社、ということがあったにもかかわらず、風邪もひかず、遅刻欠勤ゼロでした。

さらに、残業は自己申告、これもしきたりで、先輩に「何時間で申請します?」って先輩の申請時間を聞いて、それよりも少ない時間を申告するっていう笑

タイムカードあるんですよ!8時に出社してるんですよ!早くても21時台だったんですよ!

それなのに、毎月の残業を8時間とかで申請しろとかって。

そんな会社だったんです。

もっとひどいブラック企業はたくさんあると思いますので、ごく1つで、考え方次第では、まだホワイトに近い方だったとは思います。

ただ、僕には昔からの劣等感があり、前妻にも自分の気持ちを言えない、そしてお局、会社の雰囲気で、徐々にじわりじわりと、病んでいくのでした。

 

長くなりました。すみません。

読んでくださり、本当にありがとうございます!

明日は、体調の変化について話したいと思います。

それでは、また明日!