あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

死にたい自分、生きたい自分

こんにちは。

お久しぶりの更新です。

今日は5月12日、木曜日。名古屋は天気が悪く、少しジメジメしています。

このまま梅雨に入るのでしょうか。

週間天気予報を見てないのですが、梅雨の時期もしんどいよね。

 

僕は個人的な立場ですので、著名人が亡くなったというニュースについても特別に何か弔意を表明するということはしません。

その方が知人であれば話は別です。

まぁ、自死というものはつらいものですね。

 

メンタルが引っ張られるとか、ツイートの文言に既に飲み込まれてしまう、ということも少なくないと思います。

人の死に対し、「わびしさ、はかなさ」を感じることが多い。

 

実父が前立腺がんだと診断されました。

治療方針などはこれから話し合っていくことになるようです。

いずれは来るだろうと思ってきた両親の末期。

いや、まだ終わってないわけですが、気持ちの準備というものは、やっておかなければ自分も引っ張られるなと感じるわけです。

特に母親に関しては、メンタルの部分でも父親に依存している(ように見える)ため、父親が崩れてしまうと、もろとも崩れていくのかもしれません。

そういったことを、少し具体的に考えていかないといけないなと思っています。

 

また、仕事先でも「死」と向き合っていく場面が増えております。

特に副業先は高齢者のグループホームです。

それも週1日だけの勤務です。

先週は元気だったのに、入院してしまったり、亡くなってしまうこともありました。

 

そこで求められるのは、やっぱり「限りある時間をどれだけ充実していくか」です。

プロの技術とかいうのは、もっと経験が増えていけば自然と身についていくものだと思っていますし、そうでなければ困ります。

それよりも、プロの目線が大切だと感じております。

 

それは高齢者施設だけでなく、本業においても必要なものです。

利用者さんの視点に立っているか、それは慢心ではないか。

利用者さんの目線になっている「つもり」であることが多い。

色々と考えながら、仕事をしていくようになりました。

 

そのためか、「疲れ」が半端ないです。

副業はまだ週1日4時間だけの勤務ですが、その4時間はめっちゃくちゃに集中します。

もちろん、笑顔で接することも仕事として重要なことです。

笑顔だけど、「この方の居心地」を常に考えるようになりました。

 

確かに、グループホームという中は狭いものです。それに、利用者さんが「これをしたい!」というものに応えられないことも多い。

例えば「外部と電話したい」「家に帰りたい」などなど。

 

また、本業の福祉施設においては、利用者さんからの「要望」がほぼありません。

重度の自閉症、知的障害を持っていらっしゃる方。

ご自身の「やりたい」「ここがいい」など、行動で分かる場合は良いですが、意思疎通が図れない場合は非常に苦しいです。

 

まぁ、最近でよく言われるのは「虐待」とみられる介護。です。

誰が見ても「居心地良さそうに過ごしているか」という視点で考えると、一つ一つの動作を改めて考える必要が出てきます。

 

技術だけあれば、知識だけあればいい。という業界ではないんだなってことを考えさせられている毎日です。

 

とはいえ、仕事が終わればなるべく「しんどいことは考えない」ようにしております。

考え始めると、もう止まりません。

だからこそ、家に帰ればお酒を飲みながら「プエルトリコレゲトン」を聴いて、大好きだなって思える人といっしょに過ごす。

そんな過ごし方が大切だなって思っています。

 

今のところ、大好きだなって人と過ごすことはできていません。

色々な面で「訓練の毎日」を過ごしています。

整体に通って、水素を吸って体をリセットしてみたり、知人とランチに行って色々と話をしてみたり、

好きな人に軽くフラれてみたり。

 

正直、僕は多分、両親が行ってもそこまで大きな感情の変化はないと思います。

それは自分を守るためでもあります。

これ以上、自分が崩れないよう、ある程度のところで止めておく。

そうでなければ、こっちもやられる。

 

ただ、前述もしましたが、「それなら僕も行くよ」って真剣に思っていた時期もあります。

なんなら両親よりも先に行くつもりでした。

本当に数年前までは、そのつもりでした。

 

生きる希望というのは、特に固定しなくていいと思う。

どんどん乗り換えていく。

 

今、死にたいって思っている方、消えたいと思っている方

死ねと言われてしまっている方、消えろと言われている方

どんな繋がりがあるか分かりません。

もしかしたら、このブログを読んでくれるかもしれない。

そう思うと、どんどん文章が長くなってしまいます。

 

あなたの好きな食べ物はなんですか?

好きな音楽はどんなジャンルですか?

どんな時、笑顔になれますか?

もし、今、あなたが笑顔になれない状況だとしたら、どうすれば笑顔になれますか?

 

僕はプエルトリコの音楽が好きだと言いました。

PVを見ても、確かに陽気に歌って踊って、お酒飲んでいるシーンがほとんど。

女性と絡んでいるシーンもある。

 

「そんなの、お金ないとできないじゃん!」

「彼氏、彼女がいないと意味ないじゃん!」

確かに、僕も最初見た時は思いました。

 

「あの時、病んでいなければ、今頃は年収いくらだったか」

これは死ぬほど繰り返し考えました。

 

でも、現実は年収これだけしかない。しかも介護・福祉業界は初めて。経験も知識もない。

 

今、ここにいるのは、紛れもなく自分自身で間違いないんです。

あの時死にたかった、あの時死ねばよかった、あの時はモテていた、あの時は海外旅行を楽しんでいた、僕なんです。

でも、生きているんです。

そして今、感情もある。笑顔になれる時がある。笑顔で仕事をすることができる。

色々言ってくる人たちはいました(ツイッターでも、現実でも)

でも、とことん逃げて、時には自暴自棄になり、それでもやっぱり、レゲトンとビールと女性が好きな自分がいるわけです。

 

その事実、現実は、とても素晴らしいことだと思う。

色々な環境、生い立ちを持った方々が集まって社会が作られている。

だから、社会不適合なんていう言葉は存在してはいけないんです!

どんな環境の方も、どんな考えの方も、どんな背景を持った方も、全ていらっしゃるからこその社会なんです。

どうして、1日8時間は働かなければ認められないのですか?

どうして、ある程度の単位をとらないと留年なんですか?

数字で物事を見る、という見方は非常に幼稚だと僕は思っています。

そんなのチンパンジーでもできることです。(チンパンジーを引き合いに出してはチンパンジーさんに失礼です。すみません)

でも、数字でしか物事を見られない人っていますよね。

 

人の心はどうした?どこに捨ててきた?

お客様の立場に立って、などと言いながら、顧客満足度98%とか言ってる人。

 

やっぱり長くなるので、今日はこの辺にしておきます。

お付き合いありがとうございました!

仕事が充実してきました!

こんばんは。

今日は4月2日、土曜日の副業をしてきました。

何だかモヤモヤするなぁ、頭の中をグルグルと同じような考えが浮かんでいるなっていう時、ブログを書くことが多いです。

ノートだったり、Wordに書き綴るというのも同じようなものではありますが、ブログに書くということは、「一応、誰かに読んでもらうため」という形になります。

そんなに多くの方に読んで頂いているわけではないのですが、なるべく伝わりやすい言葉や表現を使うようにしております。

そうやって自分の考え、思っていることを「具体的に、分かりやすく」表現できる場所であると考えています。

 

さて、今日はタイトルを先に考えました。

最近の僕は、とても充実している。と感じています。

主に仕事ですね。

平日の本業は、知的障害を持った方の生活支援です。

こちらは入社して3年が経ちました。

最初は正社員として面接を受けて入社したのですが、僕の体調が不安定になってしまい、とりあえずパートタイムという勤務をしてきました。

あまり具体的な数字を書いてしまうのはとても恥ずかしいので、少し曖昧にはしておきます。

パートタイム勤務を始めた当初、僕の勤務時間は月20時間程度でした。

時給で働いておりますが、時給いくらなのかは内緒にしておきます。

20時間の勤務時間ですが、これは会社側から「出勤してね」という形で提示されたものでした。

体調が不安定だった当初は、そこから1日休んだり、2日休んだりとしておりました。

ですから、実際にお給料がもらえるのは20時間よりも少なくなってしまいます。

 

その会社では、様々な働き方をしている方がいらっしゃいます。

また、福祉事業であるということから、僕の精神疾患への理解も、これまで経験してきた業界、業種に比べ、とても暖かく優しく受け入れていただけました。

とはいえ、パートタイムの稼ぎで自立は非常に困難です。

今は実家を拠点に行動しておりますが、両親も高齢です。

実家をそのまま譲り受けるという考えはありませんので、僕はどこかで一人で生活をしていかなければなりません。

そうなると、月20時間の労働では、とても生活できません。

焦っていました。

パートタイム勤務となった当初、とにかく僕は焦りました。

 

あれから3年が経ち、4年目という今があります。

仕事はどうなっているか。

今でもパートタイムという立場です。

ですが勤務時間は40~50時間以上になっています。

 

ハッキリと自分から言います。

ハッキリ言って、全然自立できる金額ではありません。

今は何とか障害年金を受給しながら、少しずつ貯金をして備えている状態です。

 

確かにまだまだ不十分ですが、3年前に比べ、勤務時間が倍以上になりました。

しかもその勤務時間は、会社から出されたシフトを休むことなく勤務しています。

大して変わらない、って感じる人も多いでしょう。

20時間も50時間も変わらない。って考える人も多いでしょう。

ですが、ゆっくりと地道に、少しずつ、積み重ねてきた結果だと思う。

過去のブログを読んで頂いている方には伝わっているかと思いますが、何度も自暴自棄になり、全てを投げ出したくなるくらいにおかしくなった時期もありました。

それでも、同じ会社で、同じ職場で続けることができた。

 

また、仕事の内容も入社当初とは全然違うものになってきました。

そこは当然といえば当然ですが、

ある程度、利用者さんを任せても大丈夫だという判断がされない限り、仕事は増えていきません。

そういった辺り、僕はこの業界に入って良かったと感じています。

誰でもできる、という仕事ではなく、この人だからできる仕事。

もちろん、同じ人が同じ利用者さんばかりを担当することは、現実的に難しい(他のスタッフの出勤状況にもよるし、シフトの都合もあります)ので、

別のスタッフの時は、その方なりの支援。

僕が担当する時は、僕なりの支援。

 

例えば僕が過去にやっていた仕事として、賃貸マンションの清掃があります。

その仕事ですと「清掃前」と「清掃後」の状況にはある程度の均一化が求められます。

誰が清掃に入っても「この程度はやってもらわないと困る!」というものです。

そこには「そのスタッフだから~」というものは存在しません。

 

介護、介助の技術とか、福祉用具の使い方などについてはある程度、基準みたいなものがあるとは思いますが「その利用者さんとどう関わっていくか」については、スタッフそれぞれ、役割が違ってくるものだと思います。

そんな中で僕は僕のありのままの姿で利用者さんと向き合えばいい。

そう考えるようになってから、出勤がとても気楽になりました。

職場のスタッフさんたちにも本当に感謝しかありません。

「こんな気難しい、扱いにくそうな人間を受け入れてくれてありがとう」

という感じです。

 

また、精神疾患に伴う悩みを気軽に相談できます。

いや、「できます」というより、「勝手に僕が相談しています」

両親が高齢になっているし、今の収入ではこの先難しい。といった悩みを相談したこともありました。

もちろん、だからと言って「すぐに勤務時間を長くする」ということは現実的には難しいです。

「ゆっくり、地道に少しずつやっていけば良いんだよ。

何もフルタイムを目指さなくても、良いと思うよ。

だって、最初に比べて勤務時間も倍になったじゃん。だから、できるんだよ!

私も信頼しているから、仕事を任せられるよ」

って言ってくださいました。

 

また、入社当初と今とでは僕の「顔つき」が全然違うらしいです。

 

ただ、やっぱり正直、収入は足りません。

今後のことを考え、貯蓄をしていると話しましたが、さすがにもう少し欲しい。

それに、本業についてはほぼ平日勤務です。土日が休みです。

平日といっても、月~金までフルで入っているわけではありません。

ということで、昨年12月から、副業を始めました。

そちらは、認知症の高齢者向けのグループホームです。

面接の時に、全てさらけ出しました。そして、受け入れていただき、無理のない時間からということで、何とか週1日(土曜日だけ)、そして半日だけの勤務をさせてもらっています。

微々たる額しか稼げませんが、1万でも増えたら、少しは気持ちが軽くなりますよね。

月収30万の人が、翌月には31万になったところでそんなに重くはないかもしれませんが。

数万しかない人が1万増えたら、嬉しいですよね。

また、副業先のスタッフさんもとても素敵な方ばかりです。

 

そんな感じで、仕事について充実してきたなと感じています。

ちょっと長くなってしまってるので、切り上げます・・・

「充実してきた」とはいえ、それも少しずつ積み重ねてきた結果です。

今は本業、副業ともにありのままの自分でいられることが求められ、それが認められています。

ゆっくり、本当にゆっくり。

病みちらかした日々も、決して無駄ではなかったってことだと思う。

 

もがいてもがきまくった(具体的には、転院しまくり、転職しまくり、自分の居場所を探しまくった)結果、今の僕がいるんだ。

現状を変えようとする勇気と知識と行動と言葉。

人によっては、それらの言葉は「ポジティブすぎる」かもしれない。

行動しまくった結果、今の僕がいる。そして、仲間もいる。応援してくれる人もいる。

利用者さんがいる。

無駄にしたくないから、毎日生きるんだ。

活性酸素を取り除こう!

こんばんは。

今日はまたまた寒い1日でしたね。

関東では雪が降ったとのことで、真冬に戻った感じですね。

明日からは、また少しずつ暖かくなるみたいですね。

 

人と話をしていて、例えば古くからの知り合いと話をしている時に、僕は結構な確率で思うことがあります。

それは、「僕って、変なところだけ記憶しているなぁ」ということです。

単純に記憶力が良い。と言えなくもないですが、なんというか、「どうでもいいこと」をすごく鮮明に覚えているんです。

で、古くからの友人と話をしている時に「あの時のあのこと!」って話をしても、相手は「そんなことあったっけ?」という感じです。

「どうでもいいこと」と書きましたが、それは相手にとっては。ということです。

記憶しているってことは、僕にとっては、どこか特別なこと、あるいは特別な感情が結びついていることなのかもしれません。

ですから、僕にとっては「どうでもいいこと」ではなく、「大切な記憶の1つ」なんです。

 

昔、一緒に遊んでいた友達の家の近くのこととか、「懐かしいな」という気持ちで思い出す記憶については、それはそれで良いのだと思います。

今回話したい内容は、「記憶の中でも、どちらかというとネガティブな感情につながる記憶」についてです。

 

よく言われる言葉に、「良いことは忘れるが、嫌なことは忘れない」というものがあります。

僕にも当然、嫌な思い出はあります。恥ずかしい思い出、悲しい思い出、腹立たしい思い出、怖い思い出など。

思い浮かべてみれば、やっぱりネガティブな感情を含んだ思い出の方が、多い。

多いというか、「思い出しやすい」。

嫌なことは簡単に思い出せるのにね。幸せだなって感じたことは、必死に探さないと出てこないものです。

 

僕はよく、その当時に感じた思いを、思い出したその時に再び感じることがあります。

フラッシュバックというのか、トラウマというのか。

思い出すことによって何か重大なことが起こる(発作とか)わけではありませんが、眠れなくなるし、すごく思うのが、「何ももう1度改めて同じ感情を味わわなくても良いのにな!」っていうことです。

脳内で繰り返し繰り返し、嫌な感情が繰り返されてしまうのです。

 

恥ずかしかったことや、居心地悪かったこと、なんとも言えないこと。などなど。

できることなら、楽しかったことや嬉しかったことを繰り返してもらいたいものです。

とはいえ僕が楽しかったことや、幸せだなといった思い出なんかは、必ず元妻(のどちらか)がついてくる記憶ばかりです。

離婚をしてしまったわけですし、失ってしまったものも多くあります。

現在も手元にあるものならばまだしも、失ったものに対して、「あの時は楽しかったなぁ」と考えるのも、

現在の自分にとってつらいことです。

現在の僕にとっては、「あの時に比べれば」、今は「居心地が良いな」と考えるのが良いのではないかと思うし、実際その通りです。

結婚していた時期のことを思い出すと、恐怖と絶望で頭がおかしくなりそうです。

あんな地獄はもう嫌です。

それに比べたら、現在の僕は体調も気分も安定しており、何より仕事においても「笑顔」になることができます。

職場の居心地も非常にいい。

これまでは職場での居心地も最悪でした。

 

振り返ると、いつ死を選んでもおかしくない生活をしておりました。

人には言えないようなことを抱えていた。

僕がどんな生活をしていたかは、過去のブログを読めば分かるかと思います。

オブラートに包まなければ公開できないようなこともありました。

 

そうやって思い返し、鬱に浸る生活もしておりました。

でも、現在はだいぶ解放されている。

穏やかになったし、多少のことでは揺れなくなった。

他人を責めることはせず、相手の失敗を笑顔で受け入れる。ありのまま。

僕も失敗をする。だから、相手の失敗も受け入れる。

 

 

水素吸入を初めて経験しました。

整体にて、体質を改善したいと思っています。3カ月間、しっかりと通って体を整えていきます。

その整体院にて、通常の施術にプラスして、水素吸入ができるということです。

水素吸入の効果については、ネットで調べるとかなり出てきます。

活性酸素」というものが体内には常に生成されています。

この活性酸素が溜まってしまうと、体に悪影響を及ぼすことに繋がります。

ガンや様々な病気の原因のほとんどが、この活性酸素が原因であるとのことです。

その活性酸素を無害なものに変えるために、「水素」が活躍するのです。

 

その水素吸入を、3カ月の整体施術と共に行うことで、体の中から健康になりたいと思っています。

ハッキリ言って、現段階ではまだ水素の効果は半信半疑です。

ただ、今日初めて水素を吸入しましたが、

・眠くなる、リラックスできる、体が緩んだ感じがする、頭痛が消える、首のコリが軽くなる

ことが実感できました。

 

今後、続けていく中で、ダイエットにも効果があるということです。

プチ筋トレと同時進行で、体質・体内改善計画を実行していきたいと思います。

 

記憶の話から、急に水素の話になり、申し訳ありません。

敢えて、脈絡のないつなげ方をしてみました。

それでは、また明日ね~

 

社会不適合者というのは・・・

こんばんは。

今日は3月20日、日中の気温はだいぶ暖かくなり、日によっては仕事をしていると暑いなと感じるようになってきました。

ですが、朝晩はまだ冷え込むことが多く、また花粉の飛散もあり何だか体調が変だな感じますね。

新型コロナウィルスによる影響は、自分の身にもかなり迫ってきていると感じます。

職場では濃厚接触者が出始め、自分もどうなるか分からない状況です。

コロナに関する日本政府の取り組みについては、批判されるところが大きいなと思っています。

そんな中でも、僕は僕の人生を生きていく。

コロナにかかったら、その間の補償はどうなるのか?自宅待機でいいのか?

色々と不安なことだらけですよね。

 

さて、今日はまた久しぶりの更新ですが、やはり常々思っていることを書こうと思います。

ツイッターでツイートしたことなので、ツイッター経由でいらっしゃっている方にとっては「またその話かよ笑」ってなるかと思います。

僕は精神疾患にかかる前から、「生きづらい」と感じていました。

先天的なものなのかどうかは分かりません。記憶にあるのは、幼稚園の頃ですね。

当時は「生きづらい」という感覚ではなく、「なんで僕はうまくできないんだろう・・・」と思っていました。

主に人間関係ですね。友達との関係について、「どうして僕は他の子のようにできないんだろう」と思うことがありました。

それが嫉妬や羨望になっていきます。

「アイツは良いな」といった思考です。

これが顕著に表れ始めたのは小学校高学年になった頃でした。

低学年から中盤まではあまり意識してこなかった、「スクールカースト」みたいなものが存在していることに気づきました。

それ以前にも存在したのかもしれません。ですが、小学4年生の頃と5年生の頃とで、学校生活の楽しさが大きく変わりました。

大きく変わったと感じたのは「男女間の仲の良さ」でした。

4年生までは男女分け隔てなく、どちらかというと仲の良い関係でした(だと思っていただけなのかもしれません)。

お互いに下の名前やニックネームで呼び合ったりしていた時期でした。

5年生になり、何が変わったのかというと、分け隔てないはずであったクラスがはっきりとグループに分かれていたのです。

そして、いわゆる「陽キャ」の男の子たちだけが、「陽キャ」の女子と話ができる。

みたいな感じでした。

陽キャという言葉を使うのはとても嫌です。ですが、分かりやすくするために敢えて使います。

僕は自分から打ち解けていく人間ではなかったため、どちらかというと「目立たない」グループでした。

陽キャの男子から話しかけられることもなければ、女子なんてとんでもない。

 

これまで隔たりなんて感じなかった僕は、その現実にとてもショックを受けました。

そこからどんどん強くなりました。

「アイツはいいな」という考え方が。どんどん強く。苦しくなってきました。

好きになった子が陽キャの子だったら、もうクラス中に笑われる。

友達に話したことが全てクラス中に伝わる。笑われる。

「面白いやつだな!」の笑いではありません。

嘲笑われる、の方です。

 

息苦しい、、、そして僕から笑顔が消えていきました。

まぁ、僕の過去の話なんて過去のブログで散々話をしているので、改めて詳しくする必要はないかと思います。

気になる方だけ、遡ってみてみてください。

 

「生きづらい」という気持ちが生活に影響を及ぼし始めたのは、社会人になってからです。

それまでは、まだ「部活」や「バイト」という「自分を表現できる場所」がありました。

それこそ、部活の時とクラスにいる時、バイトの時と大学内、では人が変わったように明らかに変化がありました。

 

以来、生きづらいと感じながら生きてきて、もうだいぶ年もとってしまいました。

得られたもの、失ったもの、多くあります。

特に経済的な面では、損失は大きかった。そして、今も不安定な環境がある。

社会的なステージで人を判断することを、僕はすんごい否定しています。

社会的なステージというのは、つまり

出生→幼少期→青年期→社会人→結婚、自立→家を建てる(買う) などなど

のような感じで、「いわゆる一般的な人生の歩み方」みたいなもので人を判断することです。

 

・「あなたには子供がいないから、私の気持ちなんて分からない!」とか

・「経験していないから分からないんだ!」といったことです。

このような考え方を強く否定しています。

じゃあどんな考え方をしているかというと、「人には人の」「自分には自分の」生き方があるし、人との接し方がある。考え方も人それぞれ。

子供がいないからと言って、子育てしている人に寄り添うことができないか、と言えば「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

うつ病を経験していないからと言って、うつ病患者の気持ちを理解することができないか、と言えば「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

 

結局、僕も適応障害から、うつ病双極性障害といった診断がついてきましたが、経験したのは「自分の」病気だけです。

他の人のうつ病を経験したことなんてありません。

もちろん、その「自分の病気の経験」が役に立つこともあるでしょう。

ですが、決して全ての人に共感を得られるものではありません。

「お前それは違うだろ!」と言われることも多々あるでしょう。

 

経験をしたからといって、似たような境遇の方に寄り添えるか。

それは分からない。

寄り添えるかもしれないし、完全に拒絶されるかもしれない。

もう死にたいくらいにズタボロの心を、理解して癒すことができるのは、もしかしたら「死にたい」なんて思ったことのない人なのかもしれない。

 

僕が「生きづらさ」についてブログやツイートをしていたとしても、「うんうん、そうだね!」と共感してくれる人もいれば、「腹立つなこいつ!」と感じる人もいる。

僕も一人の患者として思うんだ。

「あなたは経験していないから分からないでしょ?」

という言葉は、なるべく言いたくない。

そして、お互いに分かり合えるために必要なものが「その経験」とは限らないと思うんだ。

だって、人の人生なんて、どう頑張っても経験できない。

生まれ育った環境も違えば、見ている世界も違う。

例えば同じ「うつ病」を経験しても、病気に対する気持ちや周囲の理解などなど、あらゆるものが「僕」と「あなた」とでは違う。

確かに共通することも多くあると思う。でも、確実ではない。

それから、「経験していないから、といって理解できないと決めつけるのは良くない」

 

「社会不適合者」という言葉をいつ頃からか、ネットでも結構目にするようになった。

目にした当初は「あぁ、僕のことか」と思っていた。

精神疾患を患い、2度も離婚をし、何度も転職をした。

「社会での居場所を見つけられない」まま、生きてきたのは間違いない。

「社会不適合者とは?」ということで調べてみると、色々と記事が出てきます。

詳しい説明はしません。

こういう言葉が出てくる時に僕が一番最初に考えるのは、「社会ってなんだ?」ってことです。

社会って、いったい何でしょうか?

まぁ、これも「社会とは?」で検索すれば言葉の意味なんかは出てきます。

その社会に「不適合」っていうことは、つまり「仲間外れ」みたいなものですよね。

あるいは「不良品」といった感じでしょうか。

すごくイメージ悪いですよね。

何らかの理由で社会に馴染むことができない状態。

という感じですが、

それって「その人が悪いの?」「その人に何かが足りないの?」って思うんです。

時間にルーズということも、「社会不適合」につながるということです。

「そりゃあ、時間にルーズなのは許せんよ」と考える人もいるでしょうし、

「いやいや、時間なんてある程度で充分だよ」と考える人もいるでしょう。

そういう色々な考えの人が集まって形成されているものが「社会」ですよね。

どうして時間にルーズが許せない、というのが「社会の常識」みたいになってるんでしょうね。

MajorityとMinorityという単語があります。

多数派と少数派、という意味です。

そして、社会はだいたい常に「多数派の意見が常識」という空気が流れています。

「社会不適合」というのは、つまりその「多数派の常識」に馴染めない人のことになります。

でも、「多数派の意見」って、必ずしも正しいのでしょうか?

そして、それで良いんですか?

 

そもそも、社会ってのは様々な人が集まって形成されるもののことを指しますよね?

そこには当然色々な考え方を持った人がいるのです。

「不適合」だとか「適合」だとか、そんな区別あってはいけないよな、って強く思うのです。

 

内容的にもっと濃くすると「マナー」といった話にも繋がってくるので、僕はそこまでの話をしようとは思いません。

ですから、「時間に間に合うようになんてのはマナーだろ!」といった考えは、先ほどで言う「多数派の常識」であり、それが「正しいのかどうか」はまた別の話だと思っています。

そこまで踏み込んだら、えらいことになります。

今ですら、既に過去一番で長い記事になってしまっています(申し訳ありません)。

 

「生きづらい」と感じることと「社会不適合」とは、繋がらない方もいれば、繋がる方もいるでしょう。

人の輪に「疲れることなく」入っていける人もいれば、「疲れるけど」入っていける人もいる、「死にそうになるけど」入っていける人もいる、「死ぬから」入っていけない人もいる、「むかつくから」入らない人もいる。

どれが正しいわけでもなく、どれが間違っているわけでもないと思う。

いや、どれも正しいのだと思う。

だからこそ、そういった様々な考え方を持つ人が存在しているからこそ、「社会」なのだと思う。

そこに「不適合」となる人が存在してしまうのは、その人が問題なのか?

僕は、「社会に寛容さが足りないから」だと思う。

「社会不適合者」なんていう単語が作られることがおかしいし、そんな社会に生きているなんて、ものすごく恥ずかしいことだと思う。

だって、「寛容さがない社会」ってことですよ?

 

「いやいや、そうは言っても最低限のマナーとか最低限の教養はあるでしょ!」という方、

それももちろん1つの考え方でしょう。

でもね、あなたの常識は他の人の常識とは違うんです。

それぞれの常識を持った様々な人が生きている。それが「社会」なんです。

 

でも、分かるんです。「そうは言っても、人が怖い、社会が怖い事実は変わらない」

そうなんです。

結局、生きづらさの原因は「社会のせいだ」と言ったところで、今、「生きづらい」と感じているものがなくなるわけでも、軽くなるわけでもありません。

 

「社会に寛容さがないから」さっき僕はそう言いました。

それなら、「寛容な場所に移動すればいい」と思うのです。

何度も繰り返している言葉ですが、社会は本当に様々な考え方の人がいます。

ですから、

今、とにかくしんどくて仕方ない人

今にも死んでしまいたい人

明日、仕事や学校に行くことが悲惨な人

親、家族から逃げたい人

 

どうか、全力で逃げてほしい。

そして思い切り探してほしい。

「自分でも居心地が良いと思える場所」を。

例えば仕事で考えれば、会社が変わればそこにいる人間も(当たり前ですが)変わります。

業界的に似たような性質の人が多いという場合は、業界や職種を変えればそれだけで大きく変わります。

学校に居場所がない方。

苦しいですよね。

親が理解してくれればいいですが、そうでないことが多いです。

 

どうか、「今いる環境」が全てではないってことを思ってほしい。

僕も、散々逃げ回ってきました。

職場から逃げ、妻から逃げ、業界から逃げ、職種から逃げ、また妻から逃げ、

 

そしてようやく笑顔で仕事ができる場所が見つかりました。

逃げ続けた10年ほどの期間、僕は笑顔を忘れていました。

そして酒に乱れ、様々なトラブルにも遭いました。2回目の離婚では弁護士さんを頼ることにもなりました。

今、確かに収入はまだ安定していません。

でも、自然な笑顔と、ありのままの自分の姿で働くことができています。

僕もあなたに、笑顔になってほしい。

 

社会不適合者、なんておかしな言葉に左右されず、自分の考えを信じ、生きていてほしいんだ。

だって、みんなが笑顔で輝くことができる社会なんて、素敵じゃない。

様々な疾患があっても、病気を持っていても、障害があっても、希望を失うことなく安心して笑い、安心して活躍できる社会。

そんな社会が実現できても、良いんじゃない?

それで損する人。いますか?

 

長々とありがとうございました。

みんな笑顔に。ゆっくりでも、繋がって、生きていこうよ。

人との交流

こんばんは。

とても久しぶりにブログを書いています。

書こうと思ったきっかけなんですが、The Beatlesの「In My Life」を聞いたからです。


www.youtube.com

 

とても素敵な曲です。

The Beatlesのなかでも、僕は特別にジョンレノンが好きです。

ジョンの歌っている曲ばかり聞いてる感じです。

 

さて、今回ブログを書くのは特別な出来事があったわけではありません。

僕は今、双極性障害を治療しながら、正社員への道をあきらめずパートの仕事をかけもちしている状態です。

2回離婚しており、それなりに色々なことを経験してきました。

人に言えないような道に走ったこともありました。

 

今日、僕は仕事を終え、職場を出た時に、空を見上げました。

まだ明るい時間だったわけですが、空が青かった。

そして思った。

「青い空は、青いままでいいんだ」って。

人の心って、青い空でも、灰色に見えると思ってしまえば、灰色になってしまうんです。

ありのまま。

なすがまま。

なるようになる。という言葉はとても良く使われる言葉です。

なるようになる。という言葉には、「自分」が入っていませんよね。

そこに虚しさを感じます。

自分が何かをしたから、こうなった。とか、ああなった。ということではなく、

「それはそのまま、それの流れに従って動いていく(もしくは動かない)」

そういう言葉を感じた時、「自分」ってどんな立ち位置なんだろなって思うんです。

自分は「それ」をはたから見ているのか、それとも「それ」と関わりながら見ているのか。

それから、なるようになる、ということは、

「自分が」何かしても変わらない。何もしなくてもいい。ということなのか。

 

分かりませんよ。

なぜ分からないかって、僕は僕、それはそれ。あなたはあなただから。

あなたから何かしら反応があればいいさ。

その反応に一喜一憂すればいいだけだから。

でも、反応がなかったらどう?

虚しいよ。

でも、仕方ないことなんだよね。

僕は関わりたいけど、あなたはそうではない。

そんなもんさ。

だからって、ひねくれてしまうのはすごくもったいない。

良いじゃないか。キモイと思われても、バカだなって思われても。

僕は僕。なんだから。

僕の他人は誰かの特別

こんにちは。

今日は2022年1月3日です。

あっという間に年を越しました。

このブログは、ツイッターを経由して見に来られる方がほとんどだと思いますが、改めまして

明けましておめでとうございます!

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

ブログの更新頻度を上げたいとは思っていますが、以前のように「何か発信したい!」という欲があまりなくなっております。

ツイッターの運用もほとんど日常生活のことばかりになっています。

ブログについては、何か形に残しておきたい思考が出てきたら書く、という感じで使っていこうと思います。

 

さて、僕はこれまで生きている中で、たびたび深く考えさせられることがありました。

今回のブログでは、うまく表現できるか分かりませんが、できるだけ伝わりやすいように表現したいと思います。

なお、分かりやすくするため、敢えて伏字は使いません。

また、少し乱暴な言葉を使う部分が出てきます、そしてある意味、過激と捉えられる文言も出てくるかと思います。

大前提として、僕はいわゆる犯罪行為(傷害、殺傷など含む)について容認しているわけではありません。

ということで、内容に入っていきます。

 

今の社会は、親の気持ちとか、子供の気持ちといったものに、ある種の「正解」みたいなものがある社会だと思っています。

例えば、「親は子供に対し、愛情をそそがなければならない」とか

「子供は親に感謝をしていかなければならない」のようなものです。

ある意味「典型的な家庭」というものが、ある程度「正解例」として共通認識みたいなものがあるように思えます。

今の教育環境がどのようになっているかは分かりません。

僕は数十年に渡り、ある程度の「家族とはこういうものだ」というものを伝えられてきたし、「自分もそうなるもんだ」という認識を持っていた。

自分もそうなる、もしくは「ならなければならない」と。

でも、それって正解を作ってしまってはいけないことなんだろうな、ということを考えられるようになりました。

 

それはつまり、「親が子供に愛情を注ぐかどうかは、その親子がおかれている環境、また育ってきた背景によって大きく変わってくる」ということです。

親→子供 に対する接し方も、子供→親 への接し方も、「正解もなければ間違いもない」ということを強く感じています。

 

例えば(例えばかりで申し訳ありません)

僕が今まで生きてきた中で感じてきたこと(つまり、典型的なある意味「正解がある」という考え方に基づく)から考えると

「親が子供を殺したい、殴りたい」なんて考えるのは「とんでもないこと」「間違っていること」である

また逆もしかり、「子供が親を殺したい、殴りたい」なんて考えるのは「間違っていること」ということです。

でも、それって「間違っている」とか「親子関係が歪んでいる」というだけでは片づけられないよなって思うのです。

もちろん、歪んでいる(と判断された)関係を修復するための方法は現在でも様々にあるかと思います。

児童相談所だったり、カウンセリングだったり、それが学校との連携であったりする。

 

確かに「憎い、むかつく、殺したい、殴りたい、親に(子供に)愛情なんて死んでもイヤだ」という感情はいわゆるネガティブな感情になる。

それを変えていこう、とすることは結果的には大切なのかもしれない。

でも、それこそ「今すぐにでも殺したい」というくらいの感情って、そう簡単に変わるものではない。

そこで僕がふと思ったことなんですが、

「親(子供)が憎たらしい」という気持ちって、本当に「間違っている」のかなぁ。

ってことです。

その親子関係を見つめていけば、憎い、殺したい、殴りたいと思うのは「親子どちらかが歪んでいる」ということではなく、「ごく当然のこと」なんじゃないかと思う。

だからその感情を「間違いだ!」「変わらなければならない」とか言うのはすごく簡単なことなんですが、それはすごく苦しいことだろうなと思うのです。

 

親子ともにお互いを憎んでいる関係もあれば、どちらかは平穏に過ごしたい、平和な関係になりたいと思いながらも、相手は憎しみを持っている。

親子の関係は本当に人それぞれです。

だからこそ、そこに「ある種の正解例」を作ってしまってはいけないと思う。

その正解例から離れてしまっている家庭を「悪い、間違っている、おかしい」と判断することってとても簡単です。

でも、その家庭からすれば、生まれ育ってきた環境、現在の環境などを考えると、「いわゆる歪んだ関係」になっているのも「ごく当たり前のこと」。

 

そんな様々な背景を持って、様々な感情を持った人たちが構成しているのが社会です。

色々あって当たり前だし、そこに「正解」「間違い」はないし、

「これが正解なんだよ」と言うのは、とても浅はかだと思う。

 

人生は千差万別だよ、ということが言いたかったことの1つですが

もう1つ、

千差万別だからこそ、そこには助け合いが重要だと思う。

 

誰かにとって特別な人は、道をすれ違った人からすれば、何の関係もないただの他人。

でも、そんな自分も誰かの特別だろうし、誰かの他人。

他人だから、その人のことなんてどうでもいい。と割り切って生きるか、

他人だけど、きっとその人も誰かの特別な人、大切にしたい。

と思うか。

そういった他者を思いやる気持ちが、社会に広がれば、救える命も増えると思う。

親子で殺し合うなんていう悲惨な出来事が起こらないためにも、常に他者にはその人の背景、環境がある。ということを。

もちろん自分にも背景、環境があるということを、尊重し合って生きていきたいと思う。

最近思っていること

こんばんは。

さて、またまた放置をしてしまっていたブログを久しぶりに書こうと思いました。

ツイッターでの日々のツイートの反響も含め、最近思うことがありました。

なかなか反応してくれないなぁ。

っていうことです。

ツイートについてはツイートをしたタイミングも大切だとは思うのですが、過去のツイートを見ることもできる仕様になっております。

個別にそこまで気にするような人間ではないんだろうな。

という自己否定的な考え方に繋がりやすいのが、SNSなのかなと思う。

こちらから声をかけた場合は反応が返ってくるが、相手からは絶対に来ない。という。

これは虚しさに繋がるし、自己否定に繋がっていきます。

とはいうものの、そこまで深い関係にいる方もいないSNSの環境です。

僕個人のプロフィールから過去のツイートを見るなんてことは、なかなかあり得ません。

自分もそうです。

気になった方の過去ツイートを見ることはありますが、それもある程度余裕がある時でなければできない。

他人にそれを求めることは非常に難しいところです。

あくまでも気が向いた時に、ということですね。

そこを無理強いしてしまうと嫌悪感に繋がりますし、関係に亀裂が入ってしまう。

けれども自分のツイートには反応してほしい。

という、なんともややこしいものです。

 

インスタグラムもやってはいますが、写真を投稿していくわけですが、日々写真を撮ることがない僕にはアップする写真がありません。

インスタ映えという言葉は今では死語かもしれませんが、今でもたくさんのキラキラした写真が飛び交っていますね。

さも、「キラキラしていないと生きていてはいけない」とでも言われているように感じます。

あるいは仲間、心を通わせる仲間たちと楽しくやっている=自分の人生

と言われているような気がしています。

それらは全てその人のほんの一部分にすぎないのにね。

色々と考えると、他人と比較をしてしまうわけです。

 

僕はそういった他者との比較によって「優れている」と感じたこともありますし、「劣っている」とも感じたことがあります。

比較をしてしまう気持ちもすごく分かりますし、それはなかなか無くならない。

 

・・・。

まぁ不安というか、不穏ですよ。

頓服を飲んでも治らないし、気分も滅入っている。

日々の生活に少しだけでも笑顔になれる瞬間ができたらいいなと感じる。

それもみんなに平等に。

とは言いつつも、できるだけ自分が笑顔になりたい、みたいな気持ちも持っている。

欲張りで目立ちたがりで、寂しがり屋な自分です。