あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

家にいるのに帰りたい

こんばんは。

今日はチラシ配りに行ってきました。

僕が配る枚数はそこまで多くなく、500枚程度なのですが、坂道がある場所なので汗だくになります。

しかも、コロナの影響のために、マスク+手袋をつけての配布なので、それはもう汗が大変です。

賃金は安いですが、大事な収入源です。

 

暑かったですが、風が強かったのでだいぶマシでしたが、風が強い日はあまりチラシ配り日和ではありません。

風が強いとチラシが折れ曲がってしまったり、真っ直ぐポストに入らなかったりするので厄介です。

それに、冬で風が強い日は最悪ですね。

マスクも手袋も冬ならまだ良いのですがね。

 

さて、唐突ではありますが、僕は自分の家にいる時でも、ふと

「帰りたいな」

と思うことがあります。

それは今、実家にいても変わらずに感じることです。

おそらく心が完全に安心していないからだと思っています。

結婚していた時はしょっちゅう考えていました。

 

「自分の家なのに、それ以上どこへ帰るのか」

問題があるのは物理的なこと部分ではないんですよね。

心理的な面での「安心できる場所」

僕は昔から安心して過ごすことができずにいました。

記憶を辿れば、小学生くらいの時からずっと思ってきたことです。

 

もしかしたら、今住んでいる場所で、「安心して生活できない」人って、たくさんいるのかもしれないなぁ。って思っています。

そういった気持ちを共有したいな、と考えたためにツイッターやこのブログを始めたわけです。

全体的な安心感が、圧倒的に不足しているんだと思う。

その安心感があるかないか、によって人生って大きく変わってきます。

まず、自分主体の生き方が難しくなります。

家にいても両親やら兄弟などの顔色を伺って生活しなければいけない、ということは幼少期においてはかなりしんどいことです。

 

また、そういったことが両親に理解されることは非常に少なく、

両親から見たら、「何の問題もない家庭で生活している」ということになるのです。

完全に自分の「心」が忘れ去られてしまいます。

そんな生活が長く続くと、見えるのは他人の心ばかり。

自分の心は見えない、いや存在すらしない状態になってしまいます。

いつでも優先するのは相手の心であって、自分がどう思うかなんて、「自分にとっても」どうでも良くなってしまう。

 

そして、物心がついてくるとそうやって、他人の心を優先して考えることを、「優しさ」だと誤解してしまうのです。

常に「自分はこう思う」というものが無い状態で生きてきた。

優しさも何もありません。

当然、周りの人たちはそんなこと気づきませんので、僕のことを「優しすぎる」とか「気にしすぎる」と表現するのです。

 

気が進まない時は、Noと言えば良いのです。

そう言えるようになる最初のステップが両親のはずです。

そこから、色々な人との関わりの中で自分を表現していくはずです。

最初でつまずいた(両親の前で、安心してNoと言えない環境にあった)。

それ以降の生き方が苦しくなるのは当たり前です。

 

そして、僕はそのことにようやく気づいた。

昨日の記事でもお伝えしましたが、長年の経験によって、変えていくことはとてもしんどいことだと思います。

ですが、まずは気づけたことが大きな一歩だと思う。

未だに僕が実家にて居心地が悪い、と感じているということは、両親にはどれだけその辺りを説明しても、理解などしてくれないためです。

 

ならば、安心して過ごせる場所を他で作る以外ありません。

そんなことから、職場での居心地や安心感を重要視してきたのです。

明日もゆっくりのんびり生きよう。

きっと一人じゃないはずだからね。