痛みを知ること
こんばんは。
また久しぶりの更新となります。
月曜日、火曜日と連日面接を受け、少し疲れが出たのかもしれません。
面接での大きな失敗はなかったと思いますが、ここのところ、不採用ばかりなので、自信がまるっきりありません。
そうは言っても、面接の際には、そんな感じに見えないように頑張るんですけどね。
不採用通知が届くことにビビリながら、引き続き、仕事探しをしています。
色々な意味で、かなりギリギリのラインで生きている状態。
しかし、そんな時でも、しっかりと心は動いているものです。
嫉妬や後悔といった感情も、生きているからこそ、感じるものです。
実家では、朝刊をとっており、毎朝、新聞には目を通しています。
その中で、僕がしっかりと読む部分があります。
それは、社説です。
中日新聞をとっているのですが、「中日春秋」という1面の左下辺りに掲載されているものです。
時々、なるほどなぁ、って感心することが書いてあります。
ある時の記事では、成人式についてのことが書かれていました。
成人した若者を前に、色々な方が激励の言葉をかけるわけですが、
「君たちには無限の可能性がある」という内容の言葉、について、その記事では、どうも「無責任に感じる」としてある。
生きていれば楽しいことばかりではない、また社会に出たら生きていく厳しさに、打ちのめされたり。または、病んでしまうことも少なくない。
そんな社会であるにもかかわらず、「無限の可能性」などという言葉を信じることはとても難しい。
しかし、そうは言っても、「無限の可能性はあり得ない」とも言い切れない。
そんな感じの記事でした。
多くの経験が、人として成長する糧となる。
ごく当たり前のように、染みついた考え方だと思う。
しかし、実際にそうなのか?という問いには、誰もが「Yes」とは言えないだろう。
苦しい経験は、苦しい。
寂しい経験は、やはり寂しい。
いつの日か、そういった経験が役立つだろう。
などと言われたところで、「じゃあいったいいつなの?」「役に立った試しなどない」
日々の生活はピリピリし、周りの人から出てくる言葉は愚痴や文句、批判、非難ばかり。
そして自分も苛立ち、怒り、不快に思いながら生きていく。
成人を迎える人たちは、アルバイトやら両親の関係を見ながら、社会というものをとてもよく見ている。
そんな方々に、「社会って楽しいんだよ!」「大人になるって、素晴らしいんだよ!」
なんて、お世辞にも言えない。
原因がどうであれ、心身の調子が崩れ、長期的な治療が必要となり、そしてそれを続けながら収入を得て、生活をしていくことがどれほどに苦しく、難しいか。
経済的な圧迫感にビクビクし、そして理解をしてもらえない周囲の人間。
仕事を探しても、採用してもらえない。
こんな状況の僕が、「生きているって、素晴らしいことなんだよ」なんて、言えるはずがない。
言ったところで、嘘になる。
病む必要なく、仕事を失う必要なく、経済的に圧迫される必要がない。
そうやって過ごしている人と、僕は何が違うのだろうか。
そして、そうやって生命の危機となり得るような格差は、あっていいものなのだろうか。
痛みを知っている人は優しくなれる。それは、間違ってはいない。
しかし、現在の社会では、まだ「優しさ」を頼りないもの、という捉え方が残っているようだ。
誰だって優しくされたら、笑顔になるはず。
それなのに、どうして、笑顔を奪っていくのかな。
みんなが笑えたら、それで良いじゃないか。そんな社会ができたら良いじゃないか。