消えたい衝動
こんばんは。
単刀直入に言えば、今日は非常に強烈な「消えてしまいたい衝動」が現れました。
ツイッター経由で、このブログに来てくださる方がほとんどだと思います。
ですが、それなりの個人情報を載せたり、ツイッターでは顔出してますし、ある意味、個人を特定されても良いのかなと思っています。
それは、やはり僕が感じてきたこと、経験してきたこと、考えてきたことが、とても大切なものだと思うし、共有していく必要があるんじゃないかなと思うからです。
なので、誰が見ているか分からないような環境ではありますが、包み隠さずに発信をしていきたいと思うのです。
今年の3月に仕事を辞め、以来、色々な雇用形態での仕事探しをしてきました。
さすがに、これだけの長期間、どこにも縁がないという経験はありません。
ただ、どんなところでも採用されたら頑張れるか、と言われたら、とても難しいと言わざるを得ません。
せっかく仕事が決まっても、再び悪化したら意味がない。
なるべく幅広い職種を探してはいますが、なかなか決まらない。
ここまで長引くとは思ってもいなかったので、僕は相当に焦っています。
そこに追い打ちをかけるように、母親に「そろそろアルバイトでもしないと!」と言われたわけです。
僕がこれまでに書いてきた記事の内容の少しずつが、もう集約されているのです。
「そろそろ仕事は?」みたいな耳の痛い話をするためには、それ以上にたくさんの温かくて優しい言葉が必要だ。
とか、両親、特に母親の方が根性論でものを言う。とか。
何度も言っている「安心感」という土台があれば、ここまで長く体調不良を抱える必要はなかったのかもしれない。
そのような類の話を母親にすると、「人のせいにするな」と言うわけです。
離婚調停をしながら、仕事も探し、治療もし。どれか一つだけでも、かなりのストレスになること、それを同時進行していた。
しかし、両親にはその大変さが全く理解できていなかった。
本当は離婚が成立する前に仕事を始めたかったわけですが、考えようでは、仕事が決まっていない状態だったからこそ、調停員さんも元妻に離婚を促しやすかったのかもしれません。
離婚が成立しても、ホッとはしていられません。すぐに仕事探しです。
色々な場面で、両親からの声かけがなかったな、と思うのです。
例えば、昨年の夏に実家に戻ってきた時、「大変だったね、生きていてくれてありがとう」
というような言葉。
また、離婚が成立した時、「長かったね、お疲れさま」という言葉。
そういった温かみのある言葉が、意図せずに自然と出てくるのであれば、おそらく僕には安心感という土台を持つことができたのだと思う。
そんな言葉が自然と言えない親だったから、いつまでたっても、温かい言葉は受け取れないまま。
今回の「消えたい衝動」も、また人に救われました。
その方が、思い出させてくれた。
過去の心地よかった瞬間に戻り、その時間の心地よさを、今、改めて感じる。
平和な時間、穏やかな会話、あんなに空を見上げたのは、久しぶりだった。
あの日の思い出が、一気に僕に生きた心地をくれたのです。
そりゃあ虚しいです。消えたい衝動から這い上がっても、見た目には何も変わりません。仕事が決まるわけでも、お金がもらえるわけでもありません。
それでも僕は、大切だなって思える人がいることが、嬉しいのです。
焦ったところで、仕事は決まりません。書類を提出しても、返事は1週間後。そして、面接を受けても、返事は1週間後。いくつか同時進行をすれば良いわけですが、毎日毎日面接では、疲れてしまいます。
その間に、また気分の波がやってきたり、家族からの言葉で傷ついたり。
もう、忙しいですよね。
そんな中、生きていることって、物凄くすごいことだと思います。
しかし、僕の両親もそうですが、そういったことが理解できない人は多い。
あくまでも表面上だけ、目に見える部分だけを見て判断をする。
それが大きな間違いであることに、全く気付かない。
このような形での発信をすることで、毎日「死にたい、消えたい衝動」と向き合っていらっしゃる方々に、寄り添えたらなと思うのです。
歩みは遅くても、向かっている方向は合っているんじゃないだろうか
こうした死への衝動と向き合っていくと、どういうわけか、ヤバいなという状況なのに、やたらと冷静だったり、新しいものを発見したりすることがあります。
まぁ、何とかなるんじゃないかな
そう思えない時も、もちろんありますが、全体的に「何とかなるさ」と思っている。
過去の僕はそうは思えませんでした。
「何とかするから、何とかなる」と思っていたので、とにかく「何かしなきゃ」と必死だった。
うまくいくか分からないけれど、何とかなるんじゃないかな。
そう思えたら、向いている方向が全然変わってくると思います。
自分には甘すぎるくらいがちょうどいい。
「甘え、怠け、しっかりしてない、責任感がない、計画性がない」
言いたいだけ言わせておけばいい。そんな言葉を言う人には、本質が見えていない。
心の奥にある、何度倒れても起き上がる、何度失敗しても挑戦する、物凄い力。
これで終わりにしようかと思ったのですが、今、ふと思いついたので続けます。
僕はHSPが原因なのかどうかの言及は避けますが、「生きづらい」と思って生きてきました。
どういった点が生きづらいか、ということを挙げていくと、何となくHSPだからなのかな、ということが多いわけです。
自己肯定感についても思うわけですが、
「生きづらい」と感じてしまっている状態を、「生きやすい」に変えることは非常に難しいと思います。
HSP関連の本がたくさん出ておりますので、専門的な知識はありません。あくまでも僕が思うことを書きます。
「生きづらさ」を感じてしまう理由として挙げられる、HSP特有のものを、逆に考えて強みとして捉えることで、「生きづらさ」を軽くしていく。
うーん、色々と書き連ねると、とんでもなく長くなると思うので、思うところだけ。
「生きづらい」って感じてしまうことを、無理して変えなくても良いのかなって思います。
また、自己肯定感についても、本当に高めないといけないのかなぁって思うのです。
「生きづらい」が「生きやすい」になるとは思えない。
「生きづらい」と感じてしまう基本設定がされているわけなので、いちいち変換をしないといけない。
いったん、「生きづらい」と感じて、そこで発想を変えて「生きやすい」という気持ちを持つと考えたら、結構な手間だと思う。
もうちょっと勉強しとくわ~
あまり変なこと書けんからなぁ。
HSP特有のものを強みに変えて発揮していく。ということはとても素晴らしいと思います。
また本なんか読んで、改めてこの部分については触れようかな。
ふと思い立った割には、めっちゃ重たい内容でしたね。
長くなってすみませんでした。
読んでくださり、ありがとうございました。