もし、仕事ができなくなってしまったら
こんばんは。
今日は更新をするか迷っていましたが、いずれ触れるだろうなって思っていたことを、ふと思い立ったので、書いてみます。
見方によっては、ものすごくひねくれた感じに捉えられるかもしれません。
ですが、僕が考えてきたことを正直にお伝えしたいと思います。
僕は2回、離婚をしたことになったわけですが、いずれの離婚も、離婚理由としましては、僕の体調の悪化、収入の不安定が主なところです。
それが離婚の理由になってしまう、ということが、何だかとても寂しいなって思いました。
それこそ、結婚式では、神父さんが「健やかなる時も、病める時も・・・」というよくあるフレーズが出てくるじゃないですか。
病んでしまった時、僕はまずその病気、症状すら信じてもらえなかった。
また、「一緒に乗り越えていこう」という言葉は、どちらの妻からも聞くことはできませんでした。
精神疾患に限らず、不慮の事故に見舞われるかもしれない。そうして仕事ができなくなってしまった場合、どうなるの?
「健やかなる時も、病める時も・・・」という精神からいくと、「仕事ができなくなったから離婚」というのは、おかしいわけですね。
もちろん、それはあくまでも、結婚するに当たっての最初の決意に過ぎません。
結婚生活をしていくと、様々な問題が発生します。
「仕事ができなくなってしまった」としても、それが永遠続くわけではない。また、色々な形で収入を得ることはできます。
収入が得られなくなった時のための備え、が十分にできていれば、良いのかもしれません(例えば、貯蓄や保険など)。
仕事ができなくなってしまった理由にもよりますが、やはり収入が減ってしまうことは非常に苦しいことです。
もっとも、傷病手当だったり、失業手当もあり、ある程度の期間は金額としては目減りしますが、ゼロにはならない。
そんな期間に、十分な寄り添いや理解、協力を得ることができたなら、きっと復帰はそれなりに安定していたのかもしれません。
こう言ってしまうと、「妻のせいにするな」や「周りのせいにするな」という言葉が出てくると思います。
ですが、実際に僕は仕事ができなくなってしまった後、「一緒に乗り越えよう」どころか突き放された。
また、そもそも「病気」でも何でもないんじゃない?となじられた。
そして、長期化してくると、「治そうとしていないんじゃない?」「やっぱり仕事したくないだけなんじゃない?」という言葉を、
ものすごく平気で言われるわけです。
で、最初の離婚をし、退職し、療養のために実家に帰ってきた時の話です。
母親と話をしている中で、「もし父親が、僕と同じように収入が得られなくなったら、離婚を考える」と言ったのです。
僕はそれを聞いた時、「はぁー(ため息)、女性ってこうなの?」って思いました。
もちろん、その時はまだ最初の妻と、母親の意見しか聞いていなかったわけですが、
再婚した妻も、同じでした。
先日離婚が成立した妻、ということですが、「離婚する」と自分から言ってくることはなかったですが、
僕の症状に対する理解、強力は最初の妻と同じでした。
突き放し、更には罵倒され、笑われ、「何の価値もない人」と言われてきた。
最初の妻、母親、次の妻、がそうだからと言って、「女性全員がそう」だとは思いませんが、
なんだろ、「思いやり、優しさ、温かさ」って、そんなにも難しいことなのかなぁって疑問に思うのです。
こういった話をしようと思ったのは、ちょうどテレビで、旦那さんが奥さんの分のお弁当を作って、夕食の準備もしてから、出勤する(午後出勤だから)、という場面が放送されていたのを見たからです。
その時、「これ、旦那さんが過労で倒れたら、どうなるんだろう?」って思ったのです。
きっと、世の中は僕の元妻のような方ばかりではないと思っています。なので、「倒れた旦那さんを、いたわり、見守り、治療に向けて一緒に協力していこう」って思う女性はたくさんいると思います。
収入も減って、最悪ゼロになり、しかも治療が長期化してきたら、「一緒に協力、支え合っていこう」なんていうことは、「理想論」でしかないのかもしれません。
それくらい、生活を脅かすものだと思います。
でも、だからこそ、「温かく、優しく、これまでの頑張りをねぎらい、感謝し、寄り添う」ことが、復帰への近道なはずなのになって思うのです。
温かさや優しさ、癒しの力に触れることによって、その大切さを知るのではなく、
「得られなかった」ことによって、その必要性を感じることになるとは
もちろん、僕は「旦那さん、奥さんが倒れた時、支え合えますか?」などのようなことは言うつもりもありません。
本当に、苦しいからです。生活水準が下がる、そうなると思考の余裕や柔軟性もなくなる。
孤立してしまう。最悪、共倒れになってしまう。
それを避けるためにも、距離をとる、別居する、そして離婚する。
とても大切な選択肢だと思います。
ある意味、それは現実的なことだと思います。
でもなぁ・・・、それってやっぱり悲しいですよね。
「得られなかった」ことによって、その大切さを知ったことの意味は大きいと思います。
だから、僕は信じ続ける
「温かさ、優しさ、時として熱いくらいの癒しの力は、それらを得られなかった僕でも、感じ、共有することができるはず」