実体験から見た、患者と周囲の意見のズレ
こんにちは。
またまた昼間の更新です。
何を書こうかと思いまして、昨晩の記事のタイトル「孤立無援で治療ができるわけない!」ということについて、もう少し振り返って話をしたいと思います。
過去の僕もそうでしたが、いわゆる「治る」という状態がどのような状態であることか、について、多くの誤解があると感じています。
僕の周りの人々にとっての「治る」とは、
「僕が仕事に行き、安定して収入を得ること」
といった見た目の問題で捉えておりました。
言ってしまえば、「働いて収入さえ安定」していれば、どんな感情の波があってもいいということですね。
なぜかと言えば
「感情の波」などというものは誰でもあることであり、それが日常生活に支障が出てしまうということは、それだけ気持ちが弱い、ということ。
それを乗り越えてこそ、強くなっていく、それが克服だ。
そして、周りの多くの人々は、それを苦しみながら乗り越えてきている。
だから、「感情の波が~」などという弱音を吐かず、歯を食いしばって生きていきなさい。
ということだからです。
つまり、「感情の波」が原因で「仕事や家事などができなくなってしまう」ことは、病気とか脳の問題ではなく、本人にやる気と強さ、責任感があれば、病院に通ったり、薬を飲んだりする必要なんて、ないんです。
ということです。
そして、そういったことを当然のこととして考えている人が、あまりにも多すぎるのです。
そんな中、僕はさしあたって「うつ病」という診断が下り、服薬による治療をすることになったわけですが、
「そもそも薬なんて飲む必要があるはずがない」
と思っている人々が周りにたくさんいる状態で、薬を飲もうとすると
「あなた、何の薬を飲むの?」「そんなにいっぱい飲むの?」「もちろん、効果はゆるい薬だよね?」
病気が治ること以前に、薬を飲み続けることでの副作用だったり離脱症状を心配している。
また、「治る」という状態についても、当事者である僕と周りの人とでは、全く違った解釈をしている。
周りの人の解釈は、上述した通りです。
ですが、僕からしてみれば、
「気分の波」が多かれ少なかれ、誰にでもある、ということは理解できるが、決して「弱い、甘い、頑張りが足りない」ために日常生活に影響が出ているわけではないのです。
むしろ、我慢に我慢を重ねて、誰にも「苦しいよ、つらいよ」と言えずに、気づいたらどうにもならなくなっていた。という状況があるわけです。
その事実を見るに、決して弱い、甘い、わけではありません。
ですが、周りの人たちは、この辺りを説明しても、どうにも理解ができないようです。
よく、精神疾患にかかってしまいやすい人の特徴として、
「人に助けを求めることができない」ということが言われます。
そんなサラッと表現をして欲しくはないのですが、
「人に助けを求めることができる人」から見たら、「助けて!」と言えないことは
「プライドが高すぎる」だったり、「それを言う勇気も必要」という、さも当然のようなことを言うわけです。
「助けてほしい」と言うにしても、そう言ってもいい「環境」がなければ言えないと思うのです。
その環境というものは、自分一人で作り上げていくものではありません。
家族、恋人、夫婦、職場、全員が作り上げていくものだと考えています。
ですから、
「助けて!」と言える環境がない、という状況は、そう言えない人が弱いわけでもなく、その周りが気が利かないわけでもなく、社会全体が地獄、だからでもありません。
「苦しい時は、遠慮なく言っても良いんだよ」というある種の安心感に、どれだけその人が包まれて生きてきたか、によるものだと思います。
孤立無援では治療なんてできるはずがない、ということですが、
そもそもの「治る」状態が、当事者と周囲の人々で大きな差があること。
そして、その「治る」ためには、何が必要なのか、ということも、当事者と周囲の人々で大きく異なっているのです。
これは、例えば周囲の人が、診察に同席し、主治医の話を一緒に聞いたところで埋まりません。
スタートラインがあまりにも違いすぎるからです。
ここで誤解されないように、説明をさせて下さい。
僕が思う「治る」の目に見える部分については、
日常生活に影響が出ない程度に、収入も得つつ、その他趣味や娯楽、交際ができることです(波がなくなることは、なかなか難しいことだと思っています。なので、その波と付き合いながら、ということが前提となります)
また、目に見えない部分については、
好き、嫌い、苦手、得意、これはできる、あれはできない、僕はそうは思わない、僕も共感する、助けてほしい、手伝ってほしい、今は大丈夫、寂しい、悔しい、むかつく、
など、色々な感情を「安心して抱き、表現すること」
だと思っています。
おそらく、そのような視点が自分に入ってくることで、物事の捉え方が思い切り変わると思います。
「ここは頑張らないと、あの人に嫌味言われるよなぁ」
っていうことを、
「嫌味を言われても大丈夫、できなさそうだから、できませんって言っちゃおう」
ということかもしれません。
この部分について、当事者であっても賛否が分かれると思います。
ですが、当事者とそうでない人にとっての、「解決とはどういう状態を言うのか」という点について、大きな隔たりがある、ということについては何となく、ご理解頂けるのかなと思います。
で、やはり孤立ですよね。
むしろ、孤立感がなく、安心感があれば、苦しくてもそれなりに何とかなるのではないでしょうか。
「死にたいくらいに苦しんでいるなんて、そんな軽々しく言うな!」
なんていうことは、「安心感」という土台があるからこそ、初めて出てくる言葉であると思います。
休職をすることとなった、診断書を会社に提出して療養期間に入った、と言っても、
「安心して」休めなければ、「安心して」薬を飲んでしっかり眠れなければ、解決とはどんどん逆方向に進んでしまうと思うのです。
そんなことからも、やっぱり安心感。
治療、休養、について、あくまでも僕の実体験で思ったことを勝手に書きました。
ですから、あらゆるご意見があるのは承知しております。
寄り添った言葉がけ、寄り添った態度、そんなことができる人間になれたら嬉しいなと思うわけです。僕も、波と向き合いながら。