あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

犯人捜しについて

こんばんは

今日も蒸し暑い1日でしたね。

台風が接近しているそうで、天気の移り変わりにも気を付けたいですね。

 

さて、今日はタイトルにある通り、「犯人捜し」について話をしたいと思います。

犯人とは言っても、一体何の犯人なんでしょうね。

精神疾患を患うことになった時、僕の周りはひたすらに「犯人捜し」をしようとしておりました。

つまりは僕が精神疾患になった原因を突き止めようとするのです。

家庭、職場色々な人たちが「いったい何が原因なんだ?」という見方をします。

まぁ、何かしらクリティカルな出来事があった後のことであれば、それが引き金になったと考えられるとは言えますが、多くの場合、原因とは1つではないでしょう。

また、「犯人」と書きましたが、原因が人であるかどうかも人それぞれです。

パワハラしてきたお局さんがおりましたが、その人が全ての原因なのか?

それはそれで、またちょっと違うでしょう。

 

また、周囲の人たちはその「原因」が何かを突き止め、それを排除すれば治ると思っています。

部署異動や転職で治る場合もあるでしょう。

ですが、色々と考えていくと、本当にそれでいいのかなって思うのです。

 

僕が精神疾患を持った時には、まだまだ「気合とか、気持ちが足りないとか、頑張りが足りない、忍耐が足りない、責任感がない」といった捉え方をする人が多かった。

精神疾患にかかること=人として情けないこと、

という固定観念があり、病気持ちの人を受け入れることをしない人たち。

 

社会は少しずつメンタルケアが唄われていた時期でもあったため、管理職向けのメンタルケア講義なんかを開催する会社も増えてきておりました。

そこで、僕がどうしても納得できない言葉、「認知のゆがみ」というワードが出てくるのです。

それを聞くと、周囲の人たちの考え方が変わります。

つまり、「病気の原因は周囲の環境などではなく、患者自身の考え方が原因なんだ」という発想が出てくるのです。

ということは、「犯人」は周りの誰か、何かではなく、「患者自身」ということになります。

 

周囲の人たちがそういう考えを持ってしまうと、非常に息苦しくなります。

「君の捉え方に問題があるんだよ」ということを平気な顔で言います。

また、すごく良いヒントを見つけてきたよ!みたいなノリで話してくるのです。

 

自分の体調不良による仕事への支障、経済的な不安定さ、日常生活への問題、それらが全て自分の考え方次第、なんて言われたらどうです?

めちゃくちゃだと思いませんか?

それに、人というのは複雑なものです。昨日の出来事を意図的に忘れ去ろうとすることはできません。

「認知のゆがみ」という単語は、犯人捜しに使ってはいけないのです。

 

物事の捉え方に問題がある。

ものすごくサラッと口では言えます。

これが意味することはどういうことかって、突き詰めて考えていくと、本当にしんどい話です。

僕はその「認知のゆがみが原因だ」ということを、家族、職場、主治医などから言われました。

その態度は僕にとって、とても冷たく痛く、鋭く突き刺さりました。

 

物事をどう捉えるかということは、その人の生い立ち、成長していく過程、周りの環境などの影響を大きく受けます。

認知というものは、カイロプラクティックみたいに、ポキッとやってすぐに修正されるものではありません。

本人の莫大なエネルギーが必要です。

それはもう、ものすごく大きな力が必要です。それに時間、(場合によってはお金、👈ここが結構重要なところ!)

きっかけとなる、誰かの話した「ワンフレーズ」でガラリと世界が変わるなんてことは絶対にあり得ません。

しかし、周囲の人たちは非常に簡単に、「物の見方を変えた方が良い」と言います。

 

はっきり言って、その大変さをまったく分かっていないからこそ、言えることだと思います。

また、患者自身の認知のゆがみを修正したからといって、全てが解決するわけではありません。

先ほど言いましたが、人の認知が作り上げられるためには、生まれた環境、背景が大きく影響しています。

その背景、環境にも視点を当てなければ、本当の問題は解決しません。

 

そして何より、疾患により患者が失ってしまったもの(健康、収入、家庭、安定、安心安全、健康的な生活・・・)を考えると、

周りの人間が気軽に「物の見方を変えた方が良い」などとは口が裂けても言えないものです。

(しかし言う人は平気で言います、何も考えていないからです。

むしろ、原因は自分たちじゃなかったんだ!ラッキー!みたいに考えています)

 

でも、僕は精神疾患と長く向き合っていく中で、「認知のゆがみ」を感じざるを得ない状況はたくさんありました。

そのせいで、様々な場面で「生きづらさ、息苦しさ、心地悪さ、恐怖、脅威」を感じていました。

今、僕の認知が形成されていく土台となった両親も高齢になり、自分も年をとり、現状の自分の認知に関しては、ほぼ自分だけの裁量で生きています。

そうなった時に、少しずつ、今まででは捉えきれなかった「認知のゆがみ」を冷静に見つめていくのだろうと思う。

 

そういう話をすると、「結局、最終的には認知のゆがみなんじゃん!」って言われるでしょう。

でも、認知のゆがみ(実際にゆがんでいるかどうかの検証も含めて)について、向き合っていくには、ひっっじょーうに複雑な問題が入り組み、センシティブな部分もあり、嫌なことも思い出したり、むかつく人間を思い出したりする必要が出てきます。

それくらいに大変な作業です。

また、周囲に敵がいる場合は作業が進みません。

(敵、と表現したのは、患者に対し「考え方を直せ!」とか言ってくる人だったり、患者の考え方を否定、批判してくる人たちのことを言いたかったためです)

 

ある程度、失うものが何もなくなるくらいにならないと難しいことかもな、とも思っています。

それくらいに自分の思慮、判断に対し、周囲の人たちというのは大きく影響を及ぼしてくるのです。

 

静かに一人になれる時間、場所があれば、それが一番いいです。

「認知のゆがみ」という言葉に惑わされず、また周りの人たちの言うことに惑わされず、ゆっくり休養することが良いと思う。

そして、自分の中でも、「そろそろ働きたいな」と思えば少しずつ活動していく。

もちろん、僕もそうでしたが、「そろそろ働きたいな」というよりはむしろ、「働かないとお金がない!」でした。

そのため、ズルズルと長く闘病を続けることとなり、色々と問題もズルズルと更に複雑になってしまいました。

ですから、本当はじっくりと休んだ方が良いと思います。

あるいは経済的、家庭的、肉体的にも安定したら。

が良いのかなと思います。

まぁ、それだけ安定していたら、そもそも病んではいなかったでしょうが。

 

「認知のゆがみ」とか「性格の問題」とかね、色々と言ってくる人はいます。

で、やっぱり生きづらい、苦しいと感じた時ってのは、何かが違っているものです。

ただ、その場ではすぐに振り返ることなどできませんし、長期的に見て、結果的に「あの時、しんどかったなー」っていうことがほとんどだと思います。

自分がつらいなって思った時を本当の意味で振り返っていけるのは、色々な出会いや別れ、失敗や無駄なこと、多くの物事を経験しなければ、難しいことなのかもしれないな。

 

こういった内容の書き込みを、患者さんが共有することはとても大切ではありますが、何よりも大切なのは患者さんの周りの環境です。

その方々がどういった思考を持っているか、によって大きく変わります。

 

だいぶ長くなってしまいましたね。

最期まで読んで頂いた方、ありがとうございます。

「犯人捜しは、誰も傷つく人がいなくなってからやろう」というのがテーマでした。