否定と安心
こんばんは。
否定ばかりされる環境に置かれてしまうと、自分を大切に思うことはなかなか難しいと思います。
しかし、僕が小学生くらいの頃は、学校において先生たちは、どちらかというと「あなたたちはダメ、未熟者だ」というスタンスで接する人が多かった。
また、体罰に関しても、まだまだごく普通の光景でした。
あくまでも学校内で、という視点ではありますが、「褒める」ということをあまりしない風潮でした。
それならば、生徒全員が自己否定を強く感じているはずだ。
ですが、現実にはそうではなく、同じ先生の元で授業を受けてきても、物事の考え方は生徒一人一人違う。
そうなると、やはり感じる側に委ねられているということになる。
「否定ばかりされている環境」という言葉も、「否定されている」と感じる人から見た言葉であり、そこに「否定をしてくる人」の気持ちは入っていない。
この場合、「否定をする側」には、そこまで悪意がないことが多い。
または、そこまで激しい否定をしているつもりはない、という気持ちであるのかもしれない。
あらゆるハラスメントでも、受けた側がどう感じるかによって、その言動がハラスメントになるのかが変わってくる。
存在を否定してしまうほどに追い詰められることは、とても苦しい。
そして、一度そのような気持ちを持ってしまうと、払拭するのは非常に難しい。
人への批判、非難、またはその存在を否定するような言葉は、どう考えても必要ないと思う。
言われた側がどんなことを感じるのか、ということはなかなか知ることはできない。
ならば、せめて伝える言葉は肯定的な言葉であることが望ましいと思う。
時には、「それじゃあ甘えすぎる、怒ってほしい」と思う人もいるでしょう。
怒ると叱るは違う、などのように、言葉の認識は人によって、本当に大きな違いがあります。
「叱る」という言葉を国語辞典で引いて出てきた意味=全ての人に共通する認識
とはならない。
ですから、このブログにおいてもそうですが、言葉を選ぶことって、非常に難しいなと感じる。
とは言え、どちらかと言うと、出てきた言葉をどんどん書いていっているため、一期一句を「う~ん」と考えているわけではありません。
ですが、やはり常に「どういう言葉が伝わりやすいか」は考えながら生きているため、次第に、出てくる言葉は、シンプルなものになっていきやすい気がします。
さて、「否定された」と感じるか、「黙れこのやろー」と感じるか。
その違いは、やはりその人独自の考え方に違いがあるためですが、その根底には、どうしても「安心感」の有無を感じてしまいます。
先ほどは、あくまでも学校内で、同じ先生に指導された場合を書きましたが、家庭内での声かけも含めて考えると、本当に複雑な問題だなと分かります。
それこそ、子供を虐待して逮捕された親が、「あくまでも躾のため」と供述するニュースが報道されますが、(もちろん、色々な面で不利にならないよう、そう言っておけ、というアドバイスに基づいていることはありますが)、親にとっては本当に躾、というレベルで考えていただけかもしれない。
親は子供時代に、もっとひどい体罰を日常的に受けていた。だから、体罰に関しては、そこまで悪いことではないという認識があったのかもしれない。
今、僕は自分の幼少期のことなどを振り返り、「やっぱり生きづらかったんだ」と気づいた。
今に始まったことではないと思いますが、「生きづらい」と感じてしまう時期が、どんどん早くなっていくのだろうなと思います。
僕が学生の頃には、「死」というものは物凄く先にある、遠いものという認識だった。
また、「精神疾患」についても同じ認識だった。
僕が小さい頃には「考えなくても良かったこと」を、考えざるを得ない環境になってきているのだと思う。
もちろん、それすらも人それぞれ。
僕の子供の頃でも、周りには色々な環境の友人はいました。
家がお店をやっていて、学校から帰ったら、手伝いをしなければいけないとか。
いじめ、というものもありました。
なので、僕は知らなかっただけで、「もう死んでしまいたい」と思っていた友人もいたのかもしれない。
居場所がない、居心地が悪い、仲間外れにされる、暴言を吐かれる、殴られるなどなど
どうしてそうなっちゃうのかなぁ・・・
そして、学校でつらい目に遭って、家に帰ってきたら、今度は親がピリピリしている。
親の機嫌を損ねないよう、学校での出来事は隠しておこうと思う。
健常者ですら、フルタイムで仕事をしていくのは疲れるものだと思う。
そこに、精神疾患やら、お金の問題やら、親の介護やら、他の病気、大変です。
ツイッターで様々な環境にいらっしゃる方々を見て、胸が痛くなり、また、自分は自分で、それなりに深い傷を持っていることに気づく。
離婚後、まだ子供との面会ができておりません。
元妻に少しでも会うのが、怖い。また、子供に会うのも怖いわけですが、これらは受け入れていかなければいけない。
そして、僕は僕のできることをやっていく。
それは治療を続け、自分の心と向き合いながら、社会復帰をして、安定させていくこと。
何度倒れても、もうあかん、ってなっても、僕は自分を信じてあげられるように。
そして、「安心感」という言葉が、意識しなくても、みんなの心に芽生えたらいいな。