あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

いろいろ笑

こんばんは。

今日は1件、面接がありました。

小中学校にけおる、タブレットやパソコンを使用した授業へのサポートという業務の面接でした。

もともと、教員免許取得を目指していたこともあり、これまでの経験を踏まえて、先生方とも、より深い信頼関係が築けるのかな、というつもりで応募をしました。

 

今夜の記事は、精神疾患と恋愛についてです。

初めにお断りしておきます、これから話す内容は、完全な主観です。

医学的な根拠も、改善されているという具体的なこともありません。

ただ単に、僕が精神疾患にかかっている中で、出会った恋への気持ちについて話しているだけです。

 

僕は、妻がいる期間に、恋に落ちました。

前妻の時でした

体調や気分、様々なことに対する波、

それに常に、発破をかける態度をとってしまう妻とは、どうしても大きな隔たりを感じてしまいました。

そうは言っても、ネットで恋人を作るということは考えることもなく、実際に会う中で距離が縮まったら良いな、という思いが強かったのです。

具体的には、ダイニングバー

最初の会社を休職か退職か、を迫られている瀬戸際の時、ふと立ち寄ったダイニングバーです。

そこは、アメリカンスタイルで、食事も本当においしいものでした。

初めて行った時は、会社内で唯一、気心を知れている後輩とでした。

しばらくして、僕は定時に上がり、真っすぐ帰宅することなく、そのダイニングバーに行きました。

ダイニングバーは、ウェイトレスさんがかわいく、とても話が上手、しかし、あくまでもレストランなので、席に誰かがつく、というようなシステムはありませんでした。

今、振り返れば、そこでも「プチカウンセリング」をしていたように思います。

ウェイトレスさんは、大学生や、タレント事務所に所属しているけれど、そこまで仕事がないっていう方がほとんどでした。

そんな中、職場にも、家庭にも(前妻)、居場所がない僕は、そのダイニングバーに、定期的に通い始めました。

当時は、とりあえず仕事には行けていた状態です。

そこで、僕は様々な環境を背負った方々に出会いました。

ウェイトレス女の子だけでなく、店長、バーテンダー、その他お客さんなど。

色々な方々の話を聞いていく中で、ある種の共通したものが見えました。

それが、「安心感」です。

 

「安心」という言葉が生まれてしまう背景には、「安心」を脅かす背景がある。

そうでなくては、わざわざ「安心」なんて言わない。

どうして安心してはいけないのか、いや、

どうして、安心を求めるために「犠牲」を払わないといけないのか。

その「犠牲」とは、お金だったり、自分の本心だったり、モノだったり。

「安心」てなんだろう?

 

僕は「安心感をテーマとした交流会」と発信したものの、そもそも「安心」って何?

ということです。

 

答えを言います

 

「人それぞれ違う」

 

「安心」または「安心感」という言葉を聞いて、何を思い浮かべますか?

 

例えば、一人の保護者が、2人の男の子を預かるという場面

保護者が「気を付けてね!無理したらダメだよ!」

2人の男の子に声をかけたとする

すると、2人の男の子は、同じ行動をするかと思えば、

 

違う

 

ある子は、「怒られない程度でギリギリのラインまで危険に近づく」

もう一方は、「おとなしく、保護者の見える範囲内で、そこまで危険ではない遊びをする」

 

当たり前のこと

 

だけど、それ、「当たり前」で済ませていいの?

 

この例えを出した時、読んだ方がどういう想像をしていらっしゃるかは分かりません。

ですので、あくまで例え、ということで済ませておきたいと思います。

 

 

どうして、幼いころから、親、または保護者、先生、大人、の機嫌を見ながら行動しなければいけなかったのか?

 

そして、親は「子供が親の機嫌を伺うのは当たり前」であるような言動をする。

 

完全に立場が逆転している

このことに関して、多くの方が発信していらっしゃることは知っております。

しかし、僕はそれよりももっと、当事者目線に立ちたい。

いや、そうでなければならない。

僕も当事者だから

 

多分、多くの方が該当すると思うのです。

例えば、HSPではない方、精神疾患とは無縁の方、いわゆるエネルギッシュな方

 

そのエネルギー、いつまで続きますか?

いつまで続くつもりですか?

エネルギーの枯渇は、本当に突然襲ってきます。

朝は元気だったのに、昼から、何だかもうダメ。

いわゆる精神疾患にかかった方からすれば、そんなこと当たり前なんです。

朝の元気が一日続く保証なんてない

更に、そこに「消えてしまったほうがいい」という強力な気持ちや衝動が重なります。

 

それだけ繊細な心は、きっと大きな強さになるはずです

信じられないでしょう。

大きな力となる前に、何度も、何度も絶望するから。

 

僕は、何とか40歳まで生きていることができました。

この先、仕事により収入が安定すればいいのですが、両親が他界し、住む場所さえなくなってしまえば

 

 

そうならないように、生きるのです

 

どうしてそこまでして生きるのか?

 

家族のため、子供のため、自分のため

どれも当てはまらない

 

苦しんで生きなければならない環境が、少しでも減ればいいなと思う。

フランクルは人間は苦悩をすることに意味があるといった

でも、本当に問いたい

 

苦悩する必要なんて、あるのか?

苦悩したことで気づいたこと、見えたことはたくさんあった。

(泣)

 

でも、

 

それほど苦しんで悩むって、苦しいですよね?苦しかったですよね?

 

苦悩という言葉じゃなく、楽悩、なんて言葉があれば良いですよね

上記の(泣)は本当に泣いていました。

こみあげてきて、どうにもなりませんでした。

 

一言でいえば、

 

悔しい

 

です。

 

苦しむほどに悩む人がいる一方、何も悩まずに生きている人がいる

一時期は、「何も悩まずに生きている人」もそれなりに悩んでるのかな~なんて調べて、聞いてみました

しかし、驚くほどに「何も考えていない」のです

上司から「気にしすぎ」と言われれば、本当に「気にしない」

 

僕は、そんな苦悩をDNAレベルだと思っています。

ですから、生まれたその時に、苦悩をするか、そうでもないか、が既に決まっている。

だからといって、苦悩をする人が「息苦しい」のはどう考えてもおかしい

 

「君はもっと趣味を持ってストレスを発散しないと!」

 

「考えることが趣味なんです、いろいろと考えて、楽しいですよ!」

 

「考える・・・、何をそんなに考えているの?」

 

きっと、そんな感じだと思います。

でも、良いんです。

多くの人にはない、かけがえのない特技、趣味「考えること」

 

考えすぎてしまうことを、特技にしてみませんか?

ポジティブシンキングではありません。

深い思考に至ること、それは、みんなができることではありません。

できない人は、やろうと思っても、絶対に絶対にできません。

 

安心して、いろいろと考えましょう

だって大丈夫なんだから、苦しくても、死にそうでも、どんな時でも大丈夫。

自分に向けたナイフ、ひとまず置こう

そして、「生きてる」ってつぶやこう