あつしの生き方日記

うつ病、HSPとの向きあい方、その他を書きます

今日は暑かった

こんばんは。

今日は10月23日、日曜日。

ここのところ僕が住んでいる名古屋は晴天が続いており、今日は暑いくらいでした。

早いもので10月も後半。確か11月でも「暑いなぁ」っていう日があったかと思うので、これくらいの陽気がずっと続くと過ごしやすいのにね。

どんどん日が短くなり、北風が強くなって、冬を迎えるわけです。

 

昨日から自分の部屋をキレイにしたいなと思い、少しずつ整理をしています。

いらないものはゴミ袋に入れ、捨てちゃおう。

暴飲暴食により、過去最大の体重になってしまった時期もあり、離婚前に履いていたズボンが入らなくなってしまっていました。

それが、ここ最近の断酒、食事制限によって、目に見えるくらいにお腹が凹みました。

そのため以前のズボンも履けることが分かりました。

ズボンもいるものといらないものは捨てるか売る。(新品でタグついたまま放置されていたものもあるので、それなら売れるかと)

結婚していた時は、本当に洋服が買えませんでした。

ユニクロのしかもセール品、しまむらとか、あとは古着。

自分が好きなブランドのものは買えませんでした。(というより、自分が好きなブランドなんていうものが無かった)

 

今も金銭的な余裕があるわけではないので、洋服を買うにしても中古品ばかりです。

ヤフオクとか、ラクマで買います。

アジアン風なブランド(チチカカチャイハネなど)や、ちょっと拘ったデザインのものを選んでいます。

古着でも、「これが安いから、これにしなさい!」と言われて買ったものより、自分で探しておしゃれだし、安いよなって思って買ったものの方が嬉しいじゃないですか。

例え安くても、愛着が湧きますよね。

 

さて、いきなり話が変わりますが、あなたは何のために生きていますか?

お金持ちになるため、仕事のため、子供のため、世界を旅するため、あるいは、よく分からないとか。

僕たちが生きる目的って、いったい何でしょうね。

恋人や配偶者と仲良く過ごすことができればそれでいい?

多くの人は、結局は「幸せになりたい」と思って生きているんじゃないでしょうか。

その幸せに向かって、色々なことに取り組みます。

例えば、テストで良い点を取って、通知表の成績が上がれば、幸せになれるんだ。

部活を頑張って、優勝することで、幸せになれるんだ。

彼氏、彼女ができれば、幸せになれるんだ。

就職活動がんばって、いい会社に入社できれば、幸せになれるんだ。

この人と結婚できれば、幸せになれる。

色々なことに打ち込みながら、「幸せ」を求めて生きてきたんじゃないでしょうか。

 

一つの山を越えたと思い、ホッとしたのもつかの間、目の前には更に次の山がある。

これを成し遂げたら明るい未来が待っている、と思って頑張って乗り越えたけど、また次の苦難が待っている。

僕も、「この学校に入れたら幸せになれる」と思って勉強をしていました。

ある程度有名な企業に入社できた時には「定年まで安泰だ」と思っていました。

現状はどうなったか。については、これまでブログで散々書いてきましたので、今回は詳しく書きませんが、「思っていた未来とはかけ離れた生活」をしています。

 

あれ?あの時、この道を進めば幸せになれると思っていたのにな。

 

幸せになりたい!幸せが待っている!と思い、色々なことに取り組んできたわけですが、「幸せだなぁ」と心から感じたことってあっただろうか。

勉強、仕事、恋愛、健康、人それぞれ生きている目的は違うでしょう。

でもそれらは全て、ずっとは続かないんです。

結婚したとしても、配偶者と永遠に一緒にいられるなんていうことはありません。

遅かれ早かれ、どちらかが先に行くんです。

熟年離婚という言葉もあるように、お互いに相手のことを100%理解しているわけではありません。

積もり積もった悲しみ、怒りなどが関係を壊すこともあるかもしれません。

 

仕事についても、今は定年までずっといられる保障はどこにもありません。

会社の経営も、いつ傾くか分かりません。

職場の人間関係で心身を壊してしまう人も多い。

人間関係は、職場だけでなく家庭でも、学校でも付きまとう問題です。

それが原因で「死にたい」「消えてしまいたい」と真剣に悩んでいる人は非常に多いと思います。

 

そんな中、生きている。

つらいこともたくさんあるし、毎日笑顔で、なんて言っていられないこともある。

収入も不安定になってしまい、健康も崩れてしまうとなったら、とてもじゃないが幸せだなんて思えないでしょう。

 

僕は優しく穏やかな人間関係を作っていきたいと思っています。

自分も相手も笑顔になれるような環境は、心身に良い影響を与えます。

蒔かぬ種は生えぬ、という言葉があります。

つまり、蒔いたものは必ず生えるということです。

言葉、行動、表情、考え方、優しく強くをテーマに生きていこうと思う。

それが自分と相手を変え、更には環境も変える。

 

浄土真宗では「人生の目的」をとても明確に示されています。

それはまだまだ僕も理解できない内容です。

何のために生きているか。

また、自分はどこに向かって進めばいいのか。今の方向で合っているのか。

 

行先も分からずに離陸した飛行機は、やがては燃料切れになり墜落してしまう。

本当の生きる目的、僕も勉強していきたいと思っています。

減薬について

こんばんは。

前回の更新から66日も経ってしまったみたいです。

継続しないことには何にもならないわけですが、特別に発信する必要のない毎日を過ごしていました。

そっかぁ、もう2か月も放置してしまっていたんですね。

そりゃあ、誰も見ないよねー。

 

さて、ここ最近の僕についてですが、9月後半くらいに病院にて血液検査をしたのですが、肝機能の数値(γ-GTP)がかなり悪くなっており、「あ、やばい」って思いました。

そこで、完全な断酒+ダイエットをしようと考えました。

もしかしたら、お酒に関しては、今後一切飲めなくなってしまうかもしれません。

はっきり言って、「あ、やばい」という結果が出るまでは、暇があるとお酒を飲んでいました。

毎日ではありませんでしたが、一度に飲む量が多すぎました。

お酒が飲める年齢になって、もう20年以上が過ぎたわけですが、ここまで「やばい」と思ったことはありませんでした。

もう、感覚が狂ってるんですよね。

酔いながら、「まだまだ大丈夫」とか考えていました。

肝機能だけでなく、コレステロールとか中性脂肪なんかも、引っかかってしまいました。

自暴自棄を繰り返し、そのたびに暴飲暴食をし、結果として体重も過去最高になってしまいました。

 

あれから2,3週間が経ちました。

お酒は1滴も飲まず、そして食事制限、今は1日0.5~1食のみとしています。

水分はなるべく糖分を含んでいないもの、そしてカフェインのないもの。

となると、水か麦茶くらいになってきます。

運動もすると良いのですが、運動に関しては職場への往復の徒歩、また仕事内で体力を使う場面も多いので、だいたい1日10,000歩弱は歩いています。

個人的に腹筋を割りたいとか、ムキムキになりたいというわけではないので、敢えて別途トレーニングはしておりません。

仕事をしてくると、それなりに体力も気力も使いますので、疲れちゃうという感じですね。

あと、大きな変化として、精神科にて出されている薬を「なるべく飲まない」ようにすることです。

向精神薬も、こううつ薬もほとんど飲んでいません。

これまでは1日3回以上は必ず飲んでいた頭痛薬も、本当に無理な時以外は飲まないようにしています。

唯一睡眠薬だけは、怖いので飲んでいます。

一睡もできないとなると、仕事にも支障が出てしまうので・・・。

 

勝手に断薬をするのは良くない。

そうなんです。減薬についても、医師の指導の下、行われるのが望ましいと思います。

それは僕も充分に理解をしており、これまで何度も断薬、減薬を試みて失敗してきました。

「僕はこの薬たちと死ぬまで付き合っていかないといけないんだろうな」

というのが、これまでの僕の考え方でした。

本当にそう信じ切っていました。

 

ですが、ある強力な思いが沸き上がり、一気に考えが変わりました。

それは

「薬のない生活には、もう戻れないのだろうか?」という気持ちです。

きっかけがあって、

ふと「何の薬も飲まずに生活している人が羨ましいな」って思ったんです。

同世代40代ともなると、生活習慣病とかリスクが高まってくる頃ですので、「何の薬も飲まない」というのは言い過ぎかもしれません。

でも、もう約15年くらいですか?何らかの精神薬、睡眠薬を飲み続け、肝機能の異常はお酒だけじゃなく、薬の影響も大いにあると思うのです。

コロコロと変わる薬たち。効果がなかったなら、じゃあ次はこの薬・・・、それもダメなら、じゃあこれは?・・・

こんなことを15年も続けてきた。

その結果、何が変わった?

多くのものを失っただけでした。

仕事を失い、家庭も失い、お金も失い、家も失い、健康も失い。

ただ、仕事や家庭やお金、家というものは、何とかしたら再び手に入れることができます。

ですが健康だけは、完全に失ってしまってはもう後戻りはできません。

そんなことを考えていたら、ふと

「薬ゼロにできないだろうか?」いや「もう薬に左右される生き方はしんどい」と強く思ったのです。

もちろん、これは時期もあると思います。

薬によってある程度、エネルギーを貯める力というか、自然治癒力と言うのを回復させなければいけない時期もあるかと思う。

考え方1つで薬が無くなる、というのも嘘臭い。

病気と診断されてしまったがために、仕事や家族まで失うっていうのは、どういう社会なんだろうな。

確かに、仕事を失うのはまだ分かる。

入社したばかりなのに欠勤が続いてしまったら、そりゃあ「あれ?」って思われても仕方ない。

でも、家族って・・・。

体調不良になったから「はい、さようなら」というものなのか?

がんばって仕事に行っていても、常に「お金がない」「こんな手取りでやっていけるわけない」とか言われたらどうですか?

 

僕はもう今年で43歳になるわけですが、えっと離婚した時には既に実家に帰ってきていたから、実家に戻ってきて何年になるんだ?もう5,6年は経ちます。

あっという間です。

今の職場で4年目になるので、6年か。

その6年の間だけを見ても分かります。

精神科の薬は減ったのか? いえ、全く減っていません。むしろ増えた。

精神科を批判をするつもりは毛頭ありません。

僕は結婚のための引っ越しやら、離婚のための引っ越し、更に転職したため、など色々な理由で病院を転々としてきました。

どちらかというと重度な方が通われているような病院

仕事はできるんだけど、ちょっと不安定というような方が仕事帰りに寄っていくような病院

入院できる比較的大きな病院

色々行きました。

しかし、どの病院においても共通することがあります。

それは、「何か不調を訴えると、あっさりと薬が追加される」のです。

そして「調子がいい」と伝えたら薬が減るかと思いきや「様子を見ましょうね」がエンドレスです。

僕は薬を飲むために生きてるわけじゃないんです。

 

人は歳を取っていくごとに「喪失体験」が多くなります。

喪失体験っていうのは、文字通り、何かを失う経験をするということです。

一般的に言われている人生(そんなもの、現在の日本においてはむしろ憧れになりつつあるものだが)

で言えば、40代前半となると、収入でもおそらく最高額くらいのものがもらえており、家庭を持ち、その家庭を守っていく。という時期になっていると思われます。

そんな生き方ができたとしたら、「得る体験」の方が多いんですよね。

収入も増え、役職(地位)も増え、家族も増え、マイホームがどうの、新車を買うとかどうのと言う感じで、「取得体験」が多い時期だと思います。

 

学生生活が終わると、社会人として普通に「正社員」として働き、定年まで勤め、その中で家庭を持ち、定年と共に退職金をもらい、

その後はゆっくりパートタイムかなんかの仕事を少しやっていく。

こういった生き方は、僕が大学生の頃は「当たり前にみんな通っていく道」だと思っていた。

まさか自分が薬漬けになり、そのせいで収入が不安定極まりない生活を送ることになるなんてね。

 

助けてくれるかと思った精神科によって、薬漬けにされてしまう。

本当に薬が必要な方にとって、不愉快な内容であると思います。

 

ですが、僕が15年と精神科に通った経験からすると、精神科を卒業することは、「かなり難しい」と思っています。

また、減薬についてですが、今の精神科の傾向からすると、非常に消極的だと思わざるを得ません。

医師にとっても、これまで何とか活動できていたのに、減薬または断薬によって全く動けなくなってしまう。

ということは避けたいところだと思います。

そのためには、現在飲んでいる薬を減らすと考えるでしょうか?

現在飲んでいる薬は引き続きそのままで、「様子を見る」以外に選択肢がないように思えます。

そうなるともう薬を手放せなくなってしまう。

頭痛薬も、依存性が高いので飲まなければ頭痛が出てくるようになる。

 

もともと僕は精神薬の効果がほとんどありませんでした。

意味がないんですよ。飲む意味が。

 

断酒、食事制限とともに、減薬もしてみたら、体がどう変わっていくか。

無理のない範囲で、進めていけたら良いと思っています。

 

うーん、なんか途中からダメになったな。

精神科や薬を否定するつもりなのではなく、あまりにも長期化しすぎじゃないか?ということを常々思っていたわけです。

「もう飲まない!」みたいに意地を張っているわけでなく、心の底から

「薬、必要ないんじゃないかな?」って思ったため、減薬をしています。

いかん、全てが言い訳がましくなってきた。。。

 

とりあえず、理性を維持したいんです。どんな時も。

他人と比較をするということ

こんばんは

お盆休みシーズンに入り、夏の暑さが感じられる毎日ですね。

今日は久しぶりに思いついたことを書こうと思います。

知的障害を抱えている方の生活支援の仕事において、散歩とか散策といったものがあります。

基本的には1人の利用者さんに1人のスタッフが付いて、一緒に散歩をするということです。

施設の利用(朝の散歩、昼食準備、午後の作業)が終わったあと、夕方に約1時間ほど施設の外に出て、運動をします。

まぁ、運動というよりかは、余暇支援という名前で、利用者さんの好きなように過ごす、というものです。

 

今は暑いので、近場の広めの場所(イトーヨーカドー)に行き、店内を歩いて体を動かす、という流れです。

今日はその夕方の支援だけの勤務でした。

仕事内容は前述した通り、店内を利用者さんとマンツーで歩く。のですが、お盆休みも入っていることから、家族連れが多かったです。

 

社会と言うか人生というものは、とてつもなく不平等で不公平だなと思っています。

いわゆる「ないものねだり」に繰り返し苦しんでいるのが人間です。

人間は産まれた瞬間からもう不平等です。

容姿や才能、あるいは親の環境や産まれた国、街。

スタートラインから大きく違うものです。

「日本に生れて良かったな」と言えたのも、「昔は」なのかもしれません。

現在の社会を見ると、ワーキングプアーといった方々が増え(僕も含めて)、一部の大企業の人やある種特定の人が儲かっているという状態です。

また、それに拍車をかけるような経済政策ばかり行ってきた。

そのため、需要は伸びず、賃金は上がらず、非正規雇用がどんどん増え、格差が広がるばかり。

これは主に「お金」の面での、不平等です。

ですが、どんな家庭環境で育ったのか、どこの学校を出たのか、どんな友人がいたのか、どんな友人がいなかったのか、パートナーはいたのか、そのパートナーは素晴らしかったのかどうか。

などなどなどなど。

 

僕も過去の自分を振り返るという作業を行っているのですが、いつの時も「あいつは良いよな」という気持ちがあった。

その「あいつ」というのは、様々な状況によって変わっていったのですが、やはり人と比較していた。

そして、「自分にはないもの」を思い、苦しんでいた。

 

よくこの手の話をすると、「人と比較するのをやめよう」という考え方が提案されることがあります。

その言葉はすごくシンプルです。

ですが、それって可能でしょうか?

 

僕も過去にはそれが可能だと信じていた。そして、そういう生き方を目標にしていた。

でもね。

「ないものねだり」って、人間には無くてはならないものなのです。

そう明確に伝えられているのが、「浄土真宗」です。

浄土真宗に関する本や動画は、数か月前から興味を持ち始めたものですが、

一度は聞いたことがあると思いますが「煩悩(ぼんのう)」が、人間にはあります。

そして、その煩悩の中に、「ないものねだり」も含まれているのです。

人間から煩悩を無くしたら、何も残らなくなる。と言われているものです。

そこまで強力な、そして人間を人間たらしめるものが、「人と比較をし、その差に苦しみ、憤りを感じること」なのです。

という内容のことを動画で拝見し、「なるほどな」と感じました。

「人と比較するのをやめよう」は、人間である以上、無理なんです。

 

イトーヨーカドーですれ違う家族たち、僕も離婚していなければ、妻と子供と、色々な場所に出かけていただろう。

でも、今はその妻も子供もいない。

「じゃあどうして離婚をしたんだ?」という問いには、過去のブログでしつこいくらいに書いているので、ここでは話しません。

また、結婚できたという過去があるだけでも、それは別の人からすると、「あいつ良いな」になるのだと思う。

みんながみんな、「あいつ良いな」と思って、毎日生きて、苦しんで、時には「死んでしまいたい」とさえ思う。

そうは言っても、僕が目にする家族たちは、みな「幸せで笑顔にあふれている」ようにしか見えない。

その方々も、それぞれ夫婦や親子で葛藤がある。(間違いなくそうなんです)

ですが、はたから見る僕には、「幸せそうな家族」にしか見えず、そしてそれは僕が手に入れることができなかったもの。

だから、そこに「不公平、不平等」を感じてしまう。

 

また、付き合ってきた女性の人数についても同じです。僕は結婚した2人の元妻しかいない。

それだけを見れば、僕が付き合った女性の中で結婚に至る可能性は100%です。

ですが、人数だけを見れば2人だけ。

そして、体の関係を持ったのも2人だけ。

学生時代から、友人と呼べるような友人がいなかった僕ですが、早い時期から(小学生とか?)彼女がいたという友人に対し、「あいつは良いな」と思っていたし、全然モテない自分が苦しかった。

それでも、まだ恋愛関係の話ができる環境だったことは、別の方から見れば「羨ましいな」ということだったのです。

 

どこまで考えても、どんな方向に考えても、「あいつは良いな」は無くなりません。

でも、そんな妬みや嫉み、怒り、憤りをもった自分でも、それは「人間らしい」ということであり、劣っているとか、性格が悪いとか、悪人とか、そういうものではないのだと思う。

 

ペヤング焼きそばのキャベツくらい

こんばんは。

非常に気分の悪い日でした。

参議院選挙ですね。

「なんで?」「こんな状態なのに?」「相当ひどい政治をしてきたのに?」

自民党に投票するんですね。

 

じゃあ、自民党があなた、(あなた個人)に対して何をしてくれましたか?

僕から言えば、何もしない政党だと思っています。

確かに、コロナ禍の特別給付ということで、10万円が給付された。

で・・・?あとは?

そうなんです、それしかないんです。

アメリカでは800兆円規模の財政出動をした。

なぜ、日本はどちらかというと「我慢」とか「忍耐」に頼るんでしょうね?

そう訴える政府もアホだと思いますが、それを「分かった!国が大変なんだね!」と受け入れる国民もアホですよ。

我慢したら、しっぱなしじゃないですか?

我慢してくれたから、いくらか給付します。

という政策はありません。

 

今回の参院選の結果を見て、日本人は本当に(本当に本当にくそったれくらい本当に)変化を嫌う人たちだなと感じた。

 

今、生活苦しくないですか?

僕のように精神疾患を持ちながらパートでの勤務を続け、障害年金をもらっている立場からすると、自立なんてハードルが高すぎる。

ここまで底辺な人間は、そこまでいないのかもしれません。

でも、覚えておいてほしいことが1つあります。

明日は我が身。という言葉です

もちろん、明日、じゃないかもしれません。

数年先かもしれません。

でも、健康で思考もしっかりしていて、仕事に臨み収入を得る。

これが狂ってしまう時、必ずあります。

そんな時、自民党に投票して良かったのか?ってなるんです。

政策をしっかり吟味していないから。

なんとなく、ノリで、または大きな変化は困るから。

 

でも、自分で自分の首を絞めているんだということに、早く気づいてほしい

なぜ生きる?

こんにちは。

またまた少し期間が空いてしまいました。

毎日、何かしら更新ができれば良いのですが、なかなかそうもいかないわけです。

その原因としては、僕が患っている「双極性障害」にあると思います。

 

僕の場合、特に目立った「躁」というものはありません。

ですから、いきなり大金を使ってしまうとか、派手に遊びまくる、旅行に行きまくる。

ということはなく、また「鬱」に関しても、そこまで深い「鬱」はありません。

ただ、無気力になってしまうことはよくあり、そのサイクルも不定期なものです。

 

僕がブログを書いておこうと思った時というのは、何かしら発信しておきたいな、と思った時です。

そんな今日は、仏教に関しての話になります。

とはいえ僕の家系は特に決まった宗派があるわけではありません。

決まりもなければ、毎日のお祈りなんかもありません。

親族が集まって、「お祈りをするならどんな言葉を言いますか?」

と聞いたとすると、おそらく色々と個々に違ったものが出てくると思います。

 

そして僕自身も、仏教、浄土真宗ですね、について触れたのはごく最近です。

ですから、本当に触りの部分しか分かりませんが、そこが本質のような気がしてなりません。

 

ここ最近考えていることとして、「なぜ生きる?」という疑問があります。

僕は20代の後半という早い時期に「双極性障害」にかかりました。

もちろん、学生の頃から、幼少期からなど、もっと早くから悩まれている方がたくさんいらっしゃることは知っています。

でも、社会人として大学を卒業し入社した会社での様々なトラブルによって、またプライベートな人間関係のトラブルによって、20代後半から服薬治療をしております。

発症当初から、薬の効果はほとんどなく、「治療難民」みたいな感じになって、いよいよ40代に入ってしまいました。

それと仏教とどんな関係があるのか、ということですが。

 

「なぜ僕らは生きているのか?」

ということを考える機会が増えたからです。

「僕ら」というか、「僕は」というほうが正しいですね。

他人には他人の人生がありますので、それについてとやかく言うつもりはありません。

ただ、自分の人生については、やっぱり「自分」が主体にならないといけないなと思うことが増えてきました。

20代という比較的早い時期に、いや、遡ればもっと前から生きづらかった。

幼少期から、友人と比較して「アイツはいいな」と思って過ごしていたことを覚えています。

その「アイツ」というのは特定の人ではなく、様々な場面で変わっていました。

しかし、いつの時も、「アイツより劣っている自分」を思い知らされていた。

なぜアイツのようにモテないのだろうか。

なぜアイツのように成績が良くならないのだろうか。

なぜアイツのお母さんのように、優しい母親ではないのだろうか。

 

そんなことが蓄積されて、更に新卒で入社した会社で様々な年代の人と関わる機会が増え、そこでイジメを受け、大勢の前で恥をかかされたりした結果、精神疾患を持ってしまうことになりました。

プライベートでも問題を抱えておりました。

 

そんな人生を歩んできましたが、ここ最近、人生の虚しさ、はかなさや切なさを感じることが増えてきました。

お金があっても、イケメンでも、美人な嫁さんがいても、死んでいく時は一緒に持っていくことはできません。

どれだけ会社での地位が上がっても、有名になっても、知人が増えたとしても、自分の人生は自分一人で生きていかなければなりません。

100%必ず死ぬ運命なんです。

人間とはそういうものなんです。

一方通行の人生しかないんです。

あの頃に戻ることはできません。自分も、他人も。

死は必ずやってくるのです。そして、その際に、どれだけ家族や知人が励ましてくれたとしても、行くときは一人で行かなければなりません。

 

生きていくためには、当然、お金も必要ですし、お金を稼ぐためには働かないといけませんし、働くためには健康が必要になってきます(今の僕はここの部分が犠牲になってしまっていますが・・・)

また、健康で働いていくためにも、更には「できる限りいい条件で」働くためにも、資格だったり、経験が必要となってきます。

人間関係もとても大切になってきます。

 

でも、それらはあくまでも「どうやって生きていくか」という「生きている状態」での話に過ぎません。

「なぜ生きているのか?」の答えにはならないんです。

前述した通り、お金も健康も家族も車も家も、何一つとして、死後の世界に持っていくことはできません。

であれば、生きている内に「なんのために生きているか?」を考えることって、とても大切なのかなと思うのです。

そこと、浄土真宗の教えがリンクしたんです。

 

浄土真宗では、まさにその「なんのために生き、そして死後はどうなるのか?」を説いているのです。

 

まぁ、そこがリンクしたところで、出家をするか、という話にはなりません。

僕はとりあえずの生きながらえをしながら生きていく他ありません。

僕の考えていることが「大ヒット」とかなれば、話は別かもしれませんが、

僕には僕の目の前の仕事をしていくことが大切だと思います。

そして、いくら「大ヒット」したとしても、人生の目的は変わることはありません。

全て死ぬときには何も持っていくことはできないのです。

 

だからといって、死後はどうなるの?自分一人で死んでいくって悲しすぎるじゃん。

そもそも、「今生きている」という「心」はどこへ行くの?

ということについても、浄土真宗では説かれています。

 

当然、僕は「にわか仏教徒」に過ぎないので、スキだらけの考えだと思います。

しかし、「なぜ生きるのか?」を考えずに死ぬか、考えながら死ぬか。

その差は大きいと思っています。

 

自分だけでなく、家族などの近い人が「病」となり、年齢的にも「もしかしたら」という状況になった今だから、そこまで考えたのかなと思います。

ですが、「生まれたら死ぬ」なんて、当たり前のことですよね。

1年1年

1日1日、「老い」に向かうしかない。

そんなことは「生まれた瞬間から決まっている」ことなのです。

ですが、「どうやったらうまく、楽に、穏やかに生きていくか」ということばかりに気を取られ、「死んだあと」を考えないのは、何だかなぁって思ったのです。

死んだらあとは何もなくなる。

死後のことなんて考えても仕方ない。

生きている今を楽しもう。

色々な考えはあるかと思います。

でも、1秒1秒、近づいているんです。

 

「だからなんだ?」と思われる方も多いと思います。

「なぜ生きる?」をそもそも疑問に思わない人もいるでしょう。

それはそれで、仕方のないことです。

でも僕は考えてしまいました。

なので、「考えない状態」に戻ることはできません。

 

「なぜ生きているか?」

しばらくの課題となりそうです。

 

長々とありがとうございました。

おばあちゃん、今日はカレーが食べたいな

お味噌汁、すっごいおいしいよ!祖父が小さな畑で収穫したトマト。

ミニトマトじゃなく、僕の顔よりも大きいくらいの無農薬のトマト。

祖母は「まだ待ちーよ。洗わないけんでしょ」

 

祖父は畑仕事から帰って、家でお茶や漬物を食べる。

 

思いだれるのは、それくらいです。

だからこそ、僕は東本願寺に行かなければ!って思ったんです。

どうして東本願寺なのか、

正直、僕を守ってくれるいわゆる守護霊は、誰なのか分かりません。

 

大きなスイカ、地下水が流れるところで冷やして食べる

夕方には盆踊りに連れ出されたり、花火が上がったり。

 

僕は、その時何を考えていたのかな?

すごく抽象的であいまいな表現にはなっているんですが・・・、

 

親族の安否、親族だけに関わらず、知人の安否

ものすごく心配するものです。

 

ここで少し比較をしたい

同じく父親を亡くした人と

同じく父親を亡くした人

事実としては、「父親が亡くなった」ではありますが、共通点ありますか?

僕の人生、あなたの人生

まったくお互いに理解できない社会

 

で、あるならば答えは一つかなと思っています

様々な変化、異常、時には暴力、虐待ともとれるような介助

当たり前なんです

だからこそ、人は一人一人違うし、まったく同じ障害同じ歩むなんて、無駄な話です、

人生の実際の生活では、様々なトラブルが起こります。

 

そして最終手に伝えたいととがあります。

それは「大切な人が重病にかかり、どうしていいか分からない」

そんな時でも、社会(世界)はあなたを苦しめることはありません

あの時、あんな言葉を言ったから

あの日、あの人はどうだったか

でも事実としては揺るぐことのない「あの人は死んだけど、自分は生きている」

それに尽きるんです。

そこに寂しさや虚しを感じるのは、とてもつらいこと

涙をこらえながら、このブログを書いてみました

人生とは孤独なもの

真っ青な空、雲が少ない晴天。

たまに吹く、ほんのり生暖かい風。

雲が少ないけれど、ところどころに見える入道雲

照りつける太陽、日陰が少なく、どこにいても暑い陽射し。

至る所から鳴き続ける、セミの声。

 

あなたは、どんなことを想像しますか。

今日は5月24日、まだ夏という時期ではないかと思います。

ゴールデンウィークが明けて、多少の天候の崩れはありながらも、どんどんと気温が上がってきています。

そして、これから梅雨を迎える。

 

梅雨が明けるのが、今年はいつくらいになるか分かりませんが、真夏の晴天の空。

あなたは何を感じますか?

 

今年の僕は、一言で言えば「虚しさ」を感じます。

虚しく、はかなく、何だか切ない感情を抱きます。

もちろん、夏はもう少し先の話なのですが、今現在、夏の晴天を思い浮かべると、どことなく寂しく、はかない気持ちになります。

 

今まで、こんなことを感じることはありませんでした。

 

かげろうが揺れるアスファルト

夕方になると、少し涼しい風が吹く。でも、昼間の熱気がやはり残る。

まだ夏だというのに、早目に鳴き始める秋の虫。

そして夜にはどこかから聞こえる花火の音。

蒸し暑い夜、寝苦しい夜。

 

僕はどうしてか、はかなさ、切なさ、物悲しさを感じます。

毎年、夏になると、新しい出会いを求めたり、海や山に出かけたり、花火を見に出かけたり。

今年の夏は、昨年と比較をすると、少し寂しい夏なのかもしれません。

 

何かしらを失う、または何かから離れる。

もしかしたらそんな夏なのかもしれません。

 

花火を見に行っても、少し物悲しさを感じるんだろうな。

 

人はいずれ亡くなるものです。

例え大金を持っていたり、豪邸を持っていたり、社会的地位が高くても、またはイケメンだったり、美人だったりしても、それを死後に持っていくことはできないのです。

健康な体を持っていたとしても、老いて死に向かう人生を逆らうことはできません。

どんなに美しい女性と結婚をしても、一緒に死にゆくことはできません。

「いやいや、それはない!」という意見もあるとは思います。

ただ、これはあくまで僕が考える人生、生き方というブログです。

 

いくら年収が高くても、いくらたくさんの子供や孫がいても、優しい女性が隣にいたとしても、死後に持っていくことはできません。

それだけ、人生は孤独だなということです。

 

僕はここ最近、上記したような「寂しさ、孤独さ、虚しさ、切なさ」を感じています。

どれだけ高い地位にいても、死んでいく時は孤独です。

また、その「死」というものは、いつ起こるか分かりません。

今夜、大災害があるかもしれません。

もしくは、明日になったら、会社から解雇を通告されたり。

パートナーから別れを切り出されたり、パートナーが大事故にあったり。

それらは、本当にいつ起こるか分かりません。

 

ですから、基本的に人というのは「不安を常に抱いている」ものだと思います。

パートナーの突然の事故に対して、いつでも覚悟できている、というほうが少ないのかなと思います。

ですが、人生とは無常なもので、パートナーの「死」がいつ起こるか分かりません。

パートナーでなく、自分の子供であったり、孫であったり、もちろん自分自身についても、いつどんな変化が起こるかは分かりません。

 

そんな人生のはかなさを、最近は感じています。

そうは言っても、僕も今すぐに親族が亡くなったとすれば、大変不安ですし、戸惑い、悲しむことでしょう。

あくまでも今の段階としては、

人生は無常。はかなく、切なく、虚しく、そして孤独なものだということ。

そんな気持ちを抱きながら生きていくことは、非常に不安定です。

だからこそ、寄り添い合える相手を探したり、どこかの会社に所属したり、収入をしっかりと得て、自立したいと思う。

 

でも、少なくとも全ては虚しく孤独なものです。

この虚しさや孤独感に対して、どう対処をしていくか。

それを考えていくことこそ、人生なのかなと思うのです。

はかなく、虚しく、切なく、物悲しい。

こういった感情は、人間としてはごく「当たり前」のものなのかもしれませんね。